「最高検」タグアーカイブ

最高検がでたらめな処理してるから、保身図れればでたらめでも通すんだ、というのが、検察スタンダードになっちゃってる/落合洋司弁護士


論外というか、本当に情けない。「正義の検察」が、ここまで羞恥心のない/郷原信郎弁護士


と言い張れば、きっと不起訴にしてもらえるでせう。弁護士は接見の際、しっかり打ち込んでおくように/ジャーナリスト江川紹子

と言い張れば、きっと不起訴にしてもらえるでせう。弁護士は接見の際、しっかり打ち込んでおくように


これから被疑者は、検察官から供述の変遷や矛盾を指摘されたら、「記憶が混同した」だけでなく/ジャーナリスト江川紹子


と言って否認する被疑者や被告人が続出しそうだな。そうなったら全部松井部長の責任/矢部善朗弁護士


最高検幹部らでつくる「新たな時代における取調べの在り方検討チーム」が今春、取り調べの録音・録画(可視化)は犯罪の立証に有効だとする提言をまとめ、全国の地検に伝えていたことが分かった。/毎日jp(毎日新聞)

毎日新聞 2013年05月05日 東京朝刊

 最高検幹部らでつくる「新たな時代における取調べの在り方検討チーム」が今春、取り調べの録音・録画(可視化)は犯罪の立証に有効だとする提言をまとめ、全国の地検に伝えていたことが分かった。取り調べで自白したのに調書への署名に応じないケースなどでは犯罪を証明する「実質証拠」になるとして、録画したDVDの裁判所への提出を検討すべきだとしている。

 2010年の大阪地検特捜部の証拠改ざん事件を受け、議論を進めてきた検察改革の一環。供述調書偏重とされた立証姿勢から脱却し、録音・録画を活用する方向性を鮮明に打ち出した格好だ。

 これまで録音・録画は容疑者が自らの意思で自白したこと(自白の任意性)の立証に主眼が置かれ、犯罪の証明に用いられることはまれだった。録音・録画の範囲も、検察官による供述調書の読み聞かせの場面に限られることが多かったが、最近は取り調べの全過程を記録する運用も広がっている。

 提言によれば、「再生で供述の正確な内容が分かる」と評価した上で、供述調書についても「供述の要点を的確に記載し、より簡潔で良い」とした。特に自白後に調書への署名を拒んだようなケースについては「録音・録画による立証が欠かせない」と言及した。

 また、「取り調べは自白獲得のためではなく、無実の人を生むことや必要以上の重い処罰を防ぐことも目的だ」と指摘した。

引用:取り調べ可視化:最高検「可視化は有効」 犯罪立証に活用提言- 毎日jp(毎日新聞)

最高検は、PC遠隔操作事件で録音録画を拒否して取り調べを放棄している東京地検の指導を急がれたい/ジャーナリスト江川紹子

裁判員制度に向けた最高検の考え方<元検弁護士のつぶやき>



裁判員制度に向けた最高検の考え方

 最高検察庁が、裁判員制度対策として

 「裁判員裁判の運営に関する基本的な考え方」

というものを発表しました。

 上記リンクのページは、その概略を説明したもののようです。
 従来の立証のやり方とはかなり発想を変えた提案をしているのですが、そしてその提案自体は基本的には間違っていると思わないのですが、このような提案を検察庁だけでやって意味があるのかな、と思っています。

 最高検が、最高裁と協議したのかしてないのか知りませんが、裁判官と裁判員が協力して判断する裁判員裁判においても、裁判官の比重は決して軽くないと思われますので、従来の立証のやり方を変えた場合に、裁判官がそれについてこないならば、無罪の山ができてしまうのではないかと想像してしまいます。

 刑事裁判における従来の立証というのは、正直言いまして、重箱の隅をつつくような細かい立証をしてきています。
 否認事件においてはその傾向は顕著に表れます。
 精密司法(ときに皮肉混じりに超精密司法)と呼ばれています。
 上記の最高検の「基本的な考え方は、精密司法の緩和ないし脱却の方向性を示しています。

 しかし検察が精密な立証をするようになったのは、検察から言わせますと、裁判所が精密な立証を要求したからです。

 つまり、裁判所も精密司法から方針転換しない限り、検察庁だけで緩和ないし脱却を図ろうとしても、公訴維持の責任を負っている検察としては、元に戻らざるを得ないことになります。
 これは裁判員制度が機能不全に陥ることを意味します。

 最高検からボールを投げたわけですから、今度は最高裁がそれに答える必要があります。

 そして、精密司法というのは、検察官に質量ともに高度の立証を求めるものですから、弁護士から見ると、その緩和は被告人に重大な不利益をもたらすものと映ります。
 検察官としては、これで十分だと言っても、弁護人はそれでは立証不十分だ、と主張することが当然予想されます。

 とは言っても、裁判所が十分だと言えばそれまでなのですが、裁判所が何もアナウンスすることなく必要な立証レベルを変更した場合、弁護士としては予測可能性が失われることになり、弁護方針の決定等に重大な支障が生じます。

 その観点からも、最高裁として明確な考え方の表明をするべきだと思います。
 これまでそれらしきアナウンスがあったような気もしますが、私の知る範囲で(私の不勉強かもしれませんが)、明確な表明はなかったように思います(追記 明確な表明と言えるものかどうかはともかく、昨年11月ころに最高裁が試案を作っています。関連するエントリー参照)。

 但し、極端から極端へ振れる傾向がある日本人の気質からしますと、方針転換をした場合、今度は雑な事実認定になって冤罪が増えないかという心配が生じます。

 このあたりのバランス感覚は一朝一夕には浸透しないのでないかと危惧しています。

 裁判制度というものは歴史と伝統と国民性の産物です。
 必ずしも精密でない司法を支えるものは、それで十分と考える国民意識であり、それを正当なものとする制度の本質認識であり、また司法取引等の司法運営上の制度ではないかと考えています。
 バックグラウンドを異にする外国の司法制度の中から、その一部だけを導入した場合に歪みが生じるのは必然的な結果だと思われます。

追記(H18/4/4)
 精密司法に関する分かりやすい意見のエントリーです。
  精密司法と日本人の国民性をちょっと考えてみた(囲碁と法律の雑記帳)
モトケン (2006年4月 1日 22:03) | コメント(12) | トラックバック(1) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

引用:裁判員制度に向けた最高検の考え方 – 元検弁護士のつぶやき

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