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渡辺被告は、送検の時に撮られた写真が笑顔なのを、有名になれて喜んでいるという評価に反発。/ジャーナリスト江川紹子

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“Title : 渡辺被告は、送検の時に撮られた写真が笑顔なのを、有名になれて喜んでいるという評価に反発。/ジャーナリスト江川紹子
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渡辺被告は、送検の時に撮られた写真が笑顔なのを、有名になれて喜んでいるという評価に反発。「何かに罰せられてきた自分が、とうとう統治権力によって罰せられるのか、という自嘲の笑い。写真を見ると確かに気持ち悪いが、(笑いは)自分の心象風景とは乖離している、と

— Shoko Egawa (@amneris84) 2014, 3月 13

仮釈放と保釈の区別がつかない人が刑事事件を報じるメディアなのだにゃ/ジャーナリスト江川紹子

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“Title : 仮釈放と保釈の区別がつかない人が刑事事件を報じるメディアなのだにゃ/ジャーナリスト江川紹子
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仮釈放と保釈の区別がつかない人が刑事事件を報じるメディアなのだにゃ… RT @buvery: 『仮釈放』とはひどいよね。まだ刑を受けてないから、保釈中、です。RT @montagekijyo: ? 上杉隆『PC遠隔操作事件の片山祐輔被告(仮釈放中)がNOBORDERメディアに』

— Shoko Egawa (@amneris84) 2014, 3月 14

誰にとっても無益な裁判が、これ以上引き延ばされないことは、喜ばしい。しかし、釈然としないのは、検察やメディアの対応である。/ジャーナリスト江川紹子

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“Title : 誰にとっても無益な裁判が、これ以上引き延ばされないことは、喜ばしい。しかし、釈然としないのは、検察やメディアの対応である。/ジャーナリスト江川紹子
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江川 紹子 | ジャーナリスト
2014年2月15日 15時31分

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国税当局が告発し、特捜検察が起訴した事件として初めて、1審控訴審ともに無罪判決が出ていた八田隆さんに対し、東京高検は14日に上告断念を発表。八田さんの無罪は確定した。

誰にとっても無益な裁判が、これ以上引き延ばされないことは、喜ばしい。

しかし、釈然としないのは、検察やメディアの対応である。
上告断念でも呼び捨て
上告せずの高検発表上告せずの高検発表

東京高検が発表した「次席検事コメント」は左の写真のような代物。タイトルは「八田隆に対する所得税法違反事件」だ。裁判所に新たな証拠を提出することも認めてもらえないほどの無謀な控訴をし、一審よりさらに踏み込んだ無罪判決が出た事件である。謝罪があってしかるべきところを、なお「八田隆」と呼び捨てる、高飛車な”お上感覚”には唖然とする。
名誉回復に鈍感すぎる報道

多くの新聞は、この結果を報じたが、ほとんどがベタ記事か活字の小さい短信扱い。理解できないのは、朝日新聞、東京新聞、日経新聞、共同通信が、八田氏の名前を匿名としていたことだ。告発、起訴などを実名で報じたからには、その人に対する刑事訴追は無罪が確定して終わったことは、名前を明らかにして伝え、名誉回復を図るべきではないだろうか。ましてや八田氏は、匿名報道を望んではいないのだ。
匿名で無罪確定を報じる朝日、日経、東京新聞(左上から時計回りで)匿名で無罪確定を報じる朝日、日経、東京新聞(左上から時計回りで)

共同通信の場合、八田氏が告発された時に、50行近い記事を配信した。「国税局は悪質な所得隠しと認定」としたうえで、「八田元部長は国内に住んでいたが、強制調査(査察)に乗り出した国税局が告発する前にカナダに出国した」など、あたかも告発逃れのために移住したような印象を与える記述もあった。さらに、起訴時には英文の記事も配信している。その影響で、八田氏は海外で決まっていた再就職を取り消された。ならば、2度にわたる無罪判決と今回の無罪確定も、英文記事できちんと報じるべきだろう。検索してみても、無罪判決や無罪確定を英文で配信した記事は見つからなかった。このままでは、国際社会の中では八田氏はいつまでも脱税犯のままだ。

無罪確定の記事を掲載しなかった毎日新聞の対応は、論外と言うほかない。同紙電子版で八田氏の名前で検索してみても、無罪確定の記事は出てこない。無罪判決は、大きな節目ではあっても、刑事事件としてはまだ途中経過。起訴を報じた事件で、無罪確定が発表されたのに、きちんと結末を報じないのは無責任のそしりを免れない。

マスメディアは、報道された者の名誉回復に鈍感すぎる。逮捕や起訴などでの実名報道を続けていくからには、今回のように無罪となった場合は、判決時、そして確定時と、手厚く名誉回復の報道をしていくべきだ。
国税も検察もなぜ立ち止まらなかったのか

それにしても、国税当局や検察当局は、なぜ、もっと早くに立ち止まることができなかったのだろうか。

この事件は、八田氏がかつて勤めていたクレディ・スイス証券の日本法人で起きた、集団申告漏れだ。税務調査の対象となった約300人が自社株やストックオプションで受け取った賞与を正しく申告しておらず、約100人が無申告だった。同社では、現金で支給される給与は源泉徴収されていたため、賞与についても源泉徴収されていると思い込んでいた社員がこれだけいたのだ。税務当局は、それぞれに修正申告をさせ、会社を指導して複雑でわかりにくい仕組みを改めさせれば、それでよかったのだ。そうすれば、八田さんは今も、国際的な金融マンとして大いに活躍し、毎年億単位の納税をしていただろう。
高裁判決を受けて満面の笑みの八田さん高裁判決を受けて満面の笑みの八田さん

にもかかわらず国税当局は、八田氏1人に、脱税の故意があったと決めつけ、告発した。これによって、八田氏は職を失い、国は1人の高額納税者を失った。1人の人間の人生を狂わせると共に、貴重な財源を潰した国税当局の責任は大きい。

東京地検は、十分証拠の精査をすれば、不起訴の選択ができたはずなのに、無理やり起訴。一審で無罪判決を受けた後も、冷静に考えれば、控訴しない道を選べたはずなのに、あえて控訴した。このため、八田氏は捜査や裁判に4年もの間、縛り付けられることになった。

何度も立ち止まる機会はあったのに、国税当局も検察当局も、それをしなかった。いったい、それはなぜなのか。なぜ、適切な判断ができなかったのか。

八田氏が、それを知りたいと思うのは当然だろう。しかし、冒頭に書いたような検察の対応では、検察自身がそれを検証し、八田氏の疑問に答えると共に、教訓として後に生かしていく、ということも期待できそうにもない。
国賠訴訟を起こすにも負担が…

この問いに対する答えを探すため、八田氏は、国家賠償訴訟を起こすことを考えている。今のところ、それしか道がないからだ。

同じような思いで、大阪地検特捜部に逮捕・起訴された村木厚子さんが起こした国賠訴訟は、国側が3770万円の賠償請求を受け入れる「認諾」をしたために、真相解明という点では不発に終わってしまった。八田氏の裁判は、国がこういう姑息な手段に出られないよう、高額な請求額になるだろう。国税や検察の誤った判断によって彼が失ったものを考えても、それは当然だろう。

だが、そうなると裁判を起こすための印紙代も高額になる。たとえば3億円の裁判を起こそうとすれば、90万円以上を支払わなければならない。4億円だと120万円を超す。加えて、代理人弁護士への報酬も必要になる。

冤罪の被害者が、このような事態に自分が巻き込まれた原因を知ろうとすると、なぜ、これほどの負担を強いられるのか。

これもまた、釈然としないことの一つである。
江川 紹子

ジャーナリスト

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。

引用:無罪確定。されど…(江川 紹子) – 個人 – Yahoo!ニュース

にも関わらず、オウム以外の可能性についてきちんと捜査しなかった警察、オウム犯人説の情報を流し続けたメディアは、平田被告の逃走にもいくばくかの責任を感じるべきだろう。 /ジャーナリスト江川紹子

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“Title : にも関わらず、オウム以外の可能性についてきちんと捜査しなかった警察、オウム犯人説の情報を流し続けたメディアは、平田被告の逃走にもいくばくかの責任を感じるべきだろう。 /ジャーナリスト江川紹子
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江川 紹子 | ジャーナリスト
2014年2月10日 21時22分

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「私は平田を匿いました」ーオウム真理教の元幹部平田信被告と同居し、その逃亡生活を支えていた女性元信者B子さんが、弁護側証人として出廷。警察庁長官狙撃事件の犯人扱いされるのを恐れ、同事件が公訴時効を迎えるまで逃亡することや出頭の時期などを平田被告自身が決めた、と証言した。

その姿は衝立で隠され、傍聴席からは見えない。検察官席の横に座っていた仮谷さん拉致事件の被害者遺族の仮谷実さんによれば、白いフリルのついたブラウスに薄いグレーのカーディガン、黒のパンツという、質素ながらもきちんとした出で立ちだった、という。

身内という意識だからだろう、B子さんは被告人について敬称をつけずに「平田」と呼び、おおむね次のような証言を行った。
【B子さんが語る逃亡生活】
~長官狙撃事件にはアリバイがあるか…~
出頭直後の平田被告出頭直後の平田被告

平田とは、教団内で「ワーク」と呼ばれる仕事を一緒に行ったことで知り合った。地下鉄サリン事件が起きた後に強制捜査が始まると、電話で「できるなら一緒に来てほしい」と呼び出しがあり、高田馬場で落ち合った。その後、仙台に行き、東北の温泉宿を転々とした。支払いは平田が行ったが、教団から出ている金だと感じていた。当初は、平田が事件に関わっているとは知らず、逃走している意識はなかったが、報道で指名手配されていることを知った。

長官事件の犯人として名指しされている報道を見た。平田は、自分は犯人ではないと言い、事件当日は三重県の元信者である友人宅にいた、と説明した。でも、当時の風潮ではオウムの元信者が何を行っても信じてもらえないだろうから、時効が成立するまで逃げると平田は言った。

「(捕まれば)冤罪にされてしまうので、愛する人を守りたい気持ちで、時効までは私が守って逃亡を続けようと思いました」

その年の夏に名古屋で平田被告が林泰男死刑囚に会った際、女性が働いて一緒に寮に住んでいると聞いたのがヒントになって、寮付きの仕事を探した。まずは仙台で割烹料理店に就職して、そこの寮に入った。その後大阪に行き、最初は北区で居酒屋に勤め、その後東大阪市の整骨院で受付の助手として12年間働いた。

朝8時過ぎから夜の10時、11時までの勤務で、寮費などを引いた手取りは、月に平均11万円5000円ほど。他に、文具を作る内職を一緒にやったこともあった。お金の管理はすべて平田被告が行い、給料袋をそのまま手渡していたので、教団からもらった金がいくら残っているなどということは知らなかった。

家事は買い物以外は平田被告がやっていたが、自分が勤めに出ている日中は、生活音がしないよう、トイレの水も流さないように気をつけていた。自分がいない間は読書したり、インターネットをやったり、軽いトレーニングをしたり、10年ほど前にウサギを飼うようになってからは世話をしていた。本の多くは、自分が図書館で借りてきた。ウサギは、2人にとって子供のような存在だった。
~計画は事前に知らなかった、と~

平田が特に悩みを漏らすことはなかったが、夜中にうなされて汗びっしょりになっていることはあった。職場に泥棒が入って従業員全員が指紋を採取された時などに、「出頭してしまおうか」と話し合ったこともあるが、できなかった。

平田は、オウムの修行をすることもなく、帰依の気持ちもなくなっていたと思う。私も、教祖の裁判での態度を(報道で)見て、幻滅した。

関わった事件については、平田から何度か話を聞いた。仮谷さんの事件は、中村昇、井上嘉浩両元幹部から「車の運転をしてくれ」と指示されただけで、現場で井上幹部の部下の共犯者に聞いても「知らないなら知らない方がいいよ」と教えてもらえなかった、とのことだった。現場では、平田の前にあった車に年輩の男性が押し込められるのを見た。その後、教団施設で男性が亡くなったことを知らされてショックを受けた、と聞いた。

長官狙撃事件は、2010年3月30日に公訴時効が成立した。しかし平田は、時効成立後にも「ウサギを看取らせてくれ。それから出頭する」と言った。自分も承知した。

「私は強く出頭を勧められなかった。彼と離れるのが辛かったので、彼の言う通りにしました」

2011年3月の東日本大震災が、出頭したきっかけ。ひどい惨状を見て、何も非のない方が大勢なくなっていることに不条理を感じたが、それがオウムの被害者の方々と重なって、けじめをつける時期だと考えるようになった。
~唯一の写真は古い免許証~
出頭する際、新大阪駅の監視カメラで撮影されていた出頭する際、新大阪駅の監視カメラで撮影されていた

ウサギは2011年8月13日に死亡。その後、すぐに出頭しなかったのは、私がショックを受けて、気持ちが不安定になっていたので、落ち着いてから話そうとしてくれたんだと思う。具体的に、12月31日に出頭すると話を聞いたのは11月13日前後。平田は捨てるものと残すものとを分けるなど準備を始めた。(捨てるものとして)免許証があったが、平田の写真として残っているものはそれだけだったので、私がもらった。

自転車を買い、平田はそれで本町駅まで行き、そこから電車に乗った。私は本町で見送った。

その後、平田に接見した弁護士から、私が捕まってしまうのではないかと平田が心配している、との電話があり、私も自首しようと決めた。
「私は自分を恥じます」

B子さんは犯人蔵匿罪で懲役1年2月の実刑判決を受け、満期出所後、製造業のパートで働いている。逃走中は絶っていた家族との連絡も復活し、正月も一緒に過ごした、という。

平田被告の今後について、B子さんは時々涙声になっりながら、次のように語った。

「献身的にまじめに仕事をする姿勢があり、人の信頼関係は築いていけると思う。オウム信者だったものには、服役より厳しい現実があることを受け止めて、社会に受け入れてもらえるよう、懸命にやっていって欲しいと心から思います。私は(出所まで)待ちます」

「面会や文通などができれば、精神面で支えていきたいと思います」

「社会に貢献することが本当のつぐないと思っています。仕事に就いて、自立して欲しい」

遺族の假谷実さん遺族の假谷実さん

B子さんは、自分が長い間平田被告を匿っていたことについて、遺族の仮谷実さんに対して、次のように謝罪した。

「もっと早くに出頭して償っていこう、と言えたのは、唯一そばにいた私だった。自分かわいさに、それができませんでした。被害者、ご遺族の方々が一生懸命、必死に生きておられる姿と比べると、私は自分を恥じます。謝罪させてください」

B子さんは立ち上がろうとしたようで、裁判長が「そのままで」と制した。

「本当に申し訳ありません」

この時、B子さんは仮谷さんの方に、深々と頭を下げた、という。仮谷さんも、丁寧に答礼した。

気持ちが揺らいだり、感情があふれ出てしないように、というためだろうか、仮谷さんによれば、B子さんは最後まで、意識的に平田被告の方は見ないようにしている様子だった。声は小さく、時に涙声にはなったものの、最後まで落ち着いて証言を行った。
長期の逃亡は「冤罪」の恐怖だけか?

警視庁公安部は、長官狙撃事件について、いつまでもオウム真理教犯行説にこだわり、それ以外の可能性をきちんと調べなかった。マスメディアでも警察の見方に沿った報道が盛んになされた。オウムでは、警察による「弾圧」がさんざん語られていたうえ、地下鉄サリン事件の後は、教団関係者に対する社会の目は極めて厳しかった。そういうことが相まって、平田被告の逃走の大きな動機になったことは理解できるような気がする。

この事件は、犯行の態様が他のオウム事件とは明らかに違っていた。にも関わらず、オウム以外の可能性についてきちんと捜査しなかった警察、オウム犯人説の情報を流し続けたメディアは、平田被告の逃走にもいくばくかの責任を感じるべきだろう。

とはいえ、逃走が長期にわたった理由は、それだけではないのではないか。

検察官が反対尋問で指摘したように、警察は2004年にオウム関係者を同事件で逮捕したが、東京地検が不起訴としている。検察は、警察の暴走を止められはしなかったものの、裁判に持ち込んで冤罪を作るような事態にはしなかった。また、オウム事件で起訴された信者・元信者で、いわゆる冤罪と呼べるようなものについては、B子さん自身も「なかった」と認めている。事件直後ならともかく、教団関係者の不起訴が決まった2004年9月以降は、この件で「冤罪にされる」可能性は、それほど現実的とはいえなかったのではないか。

平田被告自身は「冤罪にされる」の可能性を、いつまで、どの程度現実的なものとして考えていたのだろうか。途中からは、「冤罪」の恐怖より、献身的なB子さんとの生活を絶ちがたかったからなのではないか、という疑問も湧く。「時効まで」と言っていたはずが、時効が成立すると「ウサギの死を待って」と先延ばしにし、実際に出頭したのはその4ヶ月半後。その間、出頭しなくてはという気持ちと、B子さんとの生活を一日でも長く送っていたい思いの間でせめぎ合いがあったのかもしれない。

緊張感のある毎日とはいえ、大切な人との生活には、ささやかな喜びもあったろう。そうして日々の暮らしがどれほど大切で愛おしいものかを実感した時に、被害者や家族からそれを奪ってしまう事件に加担した自らの罪を、彼はどう感じたのだろうか。

己の弱さや身勝手さも直視したうえで、近々行われる被告人質問で、そうした事柄についても、彼が自分の言葉で、率直に語ることを期待したい。
江川 紹子

ジャーナリスト

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。

引用:【オウム裁判】「愛する人を守りたかった」~同居女性の証言(江川 紹子) – 個人 – Yahoo!ニュース

化けの皮をはいで一件落着とは思わない。メディアを舞台にして、多くの善意の人によって「神話」が拡散されていったプロセスこそが、もっとも検証されなければならないものだと思う。/ジャーナリスト江川紹子

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“Title : 化けの皮をはいで一件落着とは思わない。メディアを舞台にして、多くの善意の人によって「神話」が拡散されていったプロセスこそが、もっとも検証されなければならないものだと思う。/ジャーナリスト江川紹子
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江川 紹子 | ジャーナリスト
2014年2月6日 22時48分

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「佐村河内さんが世間を欺いて曲を発表していることを知りながら、指示されるがまま、曲を書き続けてた私は、佐村河内さんの「共犯者」です――「全聾の作曲家」として、NHKスペシャルを初め、あらゆるメディアで称賛されてきた佐村河内守氏のゴーストライターだった新垣隆氏が、2月6日、謝罪の記者会見を行った。
会見する新垣隆氏(都内のホテルで)会見する新垣隆氏(都内のホテルで)
今でも「共同の作品」
佐村河内氏のCD佐村河内氏のCD

18年間に20曲以上を提供。その中には大編成で80分にわたる交響曲もある。それも含めて報酬は700万円前後、という。この間、佐村河内氏はいくら稼いだのだろう。CDは、『交響曲第一番HIROSHIMA』は約18万枚、『鎮魂のソナタ』は10万枚以上売れたというが、新垣氏には一円の印税も渡っていない。それでも報酬引き上げを求めもせず、今でも不満を抱いていないようだ。

『交響曲第一番HIROSHIMA』では、佐村河内氏は「中世宗教音楽的な抽象美の追求」「上昇してゆく音楽」などというイメージや主題について「祈り(救いを求め)」「啓示(真理への導き)」などというコンセプトだけを指示。旋律のスケッチさえ作っていない。それどころか、新垣氏がいくつかのモティーフを考え、ピアノで弾いて録音したものを佐村河内氏が聴いて(!!)、どれを使うか指示して、それを元に作曲することもあった、という。

それでも新垣氏は「彼との関わりの中で作品が生まれたので、共同の作品」とさえ言う。2人の関係を、「彼は実質的にはプロデューサー。彼のアイデアを私が実現する。彼は自分のキャラクターを作り、作品を世に出していった。彼のイメージを作るために、私は協力したということ」と説明。そして、佐村河内氏についてネガティヴな質問には、より慎重に、短く、最小限の答えをするのだった。
佐村河内氏はプロデューサー

当初は、短いテーマ曲をオーケストラ用の楽曲に仕上げる仕事を頼まれた。その後、次々に曲の代作を依頼される。

新垣氏は前衛的な現代音楽が専門だが、佐村河内氏の名前で発表されるのは、大衆受けのする聞きやすいもの。週刊文春の記事の中では、「彼(佐村河内氏)の申し出は一種の息抜きでした。あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる、どうせ売れるわけはない、という思いもありました」と語っている。

その一方で、会見での新垣氏は「すべての作品は、私のできる限りの力で作り、そういう意味では大切なもの」とも述べている。

芸術家として、自らの実存をかけた作品ではなく、いわば職人として、プロデューサーの求める商品を、腕によりをかけて作っていった、ということなのかもしれない。
佐村河内氏佐村河内氏

優れた商品だった楽曲は、佐村河内氏の「物語」と相まって、多くの人の感動を呼んでしまう。新垣氏の予想に反し、売れてしまう。マスメディアが、「物語」を拡散し、感動を増幅する役割を果たした。多くの人に曲が届けられることを、新垣氏は「うれしかった気持ちがあったことは否めません」と吐露している。
なぜゴーストを続けたのか

ただ、新垣氏がその後も代作を続けたのは、それだけではないだろう。彼が、佐村河内氏に強くこのような関係はやめたいと申し入れたのは、昨年の5月。暮れには、高橋大輔選手がソチオリンピックで「ソナチネ」を使うことを知り、再度強く申し入れたところ、佐村河内氏からは「自殺する」と脅された。だが、それまでの間、彼はなぜ黙ってゴーストライターを続けていたのだろうか。

18年間の2人の関係について聞かれ、新垣氏はこう答えた。

「最初お会いしたとき、彼は映画の仕事で自分のアイデアをどうしても実現したいという気持ちがあった。音楽に当てられた予算を大幅に超えたため、彼は自分でお金をで出して、メンバーを雇い、スタジオを借り、私が協力して作った。(当時の)彼は、自分のやりたいことを実現させるためにがんばった。このようなことがたびたびあり、彼を非常に偉いなと思っていた。彼が変質したかどうかは、私はそんなに感じてはいなかったかもしれません。彼とは基本的に、彼の依頼で、私が譜面を作り、渡すというやり取りだけの関係を保っていました。その中で、彼の情熱と私の情熱が、共感しあえたときはあったと思っています」

この発言を聴いていて、私は(大変失礼だとは思いつつ)、オウム真理教のことを思い出していた。この事件では、逮捕され、頭の中では教団のしたことは間違いだとわかっていても、なかなか教祖と決別できない元信者たちがいた。裁判になっても、教祖のことだけは証言できなかったり、口ごもってしまう。そして、古い信者ほど、犯罪とは関わりのなかった教団初期の頃を思い出しては、懐かしんだりするのだ。つい最近の平田信元信者の公判で証言した中村昇無期懲役囚や中川智正死刑囚も、自身の裁判の時にはそうだった。

佐村河内氏と新垣氏の関係は、教祖と弟子のようなものとは違うとは分かっている。そこを同一視しているわけではない。しかし、現実よりも、過去の情熱が共感し合えた時を引きずって、普通であれば、異常に感じることも感じなくなる、考えるはずのことを考えなくなる状態が続いたのは、単にプロデューサーと制作者との関係では済まされない、何かがあったのではないだろうか。その「何か」はよく分からないが……。
佐村河内氏の作品とされる譜面をテレビ局に示され「私が書いたものです」と佐村河内氏の作品とされる譜面をテレビ局に示され「私が書いたものです」と
「物語」から「神話」へ

佐村河内氏が曲を献呈した、とされていた義手のヴァイオリニスト少女の父親のコメントの中にこんなくだりがある。

〈娘は、佐村河内氏から格別の厚遇を受け(中略)様々な恩恵を授かりましたので、それに関しては大変感謝しております。

ただここ1年ほどは、絶対服従を前提に徐々に従いがたい要求を出されるようになり、昨年11月に、服従できぬと回答しましたところ大いに怒りを買い、絶縁された状態になっておりました〉

一通のコメントで断言はできないが、佐村河内氏は、神秘性をまとった権力者として、自身の計画を実現するうえで必要な人たちを支配しようとしていたのではないか、という気がする。新垣氏も、そんな支配の構図の中に、知らず知らずのうちに絡め取られていたのではないか。

それは、必ずしも苦痛ではなく、指示をよりよい形で実現する喜びのようなものもあっただろう。自分がやっていることを自覚できないまま、「指示されるがまま」に曲を書き続けてしまった、という新垣氏のコメントは、自分の仕事の結果が何をもたらすかについて関心を持たなかった信者の状況を、ほんの少しばかり彷彿とさせる。

会見での言動を見ている限り、新垣氏は生真面目で誠実で、金銭欲や名誉欲や権利意識が希薄で、執着も薄く、自己主張が弱く、そしてあまりに浮き世離れしていて社会性に乏しく、音楽の世界だけで生きてきた、という感じがした。きっと彼は、人の善意を信じてしまうタイプだろう。彼に教わった音楽家たちは、口々に彼が本当にいい先生だった、と言っているようだ。そういう善意の人だからこそ、なおさら、佐村河内氏が全聾を装うことについても、その意図を疑うこともなく、深く考えることもなかった時期が長いのではないか。善意が無自覚を生んでしまったと言えるかもしれない。

疑うこともなく、深く考えることもなかったのは、1人新垣氏だけではない。ドキュメンタリーで記譜する場面を決して撮影させなかったのは、「おかしいな」と気がつくきっかけになると普通は思うが、スタッフはそれを疑ったり確かめたりしなかった。佐村河内氏の「物語」はいつの間にか「神話」になっていたのだろう。メディアにいて彼を取り上げる人たちは、「神話」を受け入れつつ、それをさらに増幅して、多くの人たちに届けた。音楽評論家の中にも、佐村河内氏を激賞して、「神話」をさらにグレードアップする役割を果たした人もいる。
「神話」拡散のプロセスの検証を

新垣氏が今の時点で事実を明らかにしたことで、「神話」の拡散をようやく食い止めることができた。事実が明かされないままオリンピックに突入していれば、さらに「神話」は世界規模にふくれあがってしまっていたかもしれない。それを思うと、ぞっとする。先の少女も、事実を知ってショックを受けながら、献呈された曲への愛着は失っていない、という。週刊文春で紹介されている彼女の高橋大輔選手宛の手紙には、「本当の作曲者は幼稚園の頃から発表会やコンクールで伴奏をしていただいている、とても優しい方だったのです」と書いている。記者会見の最後には、数日前に、2人で演奏した「ソナチネ」の一部も流された。真実が、2人の信頼をむしろ堅いものに、少女を成長させた、と思いたい。少女は高橋選手に精一杯のエールを送っている、きっと高橋選手にも届くだろう。遅すぎるという人はいるかもしれないが、18年という期間に、自らピリオドを打った新垣氏の勇気は、認めたい。

会見に集まったカメラの一部会見に集まったカメラの一部

記者会見には多くのメディアが集まり、この問題への関心の高さを感じた。ただ、それはスキャンダルとして報じられるだけでいいのだろうか。

佐村河内氏の真の姿は明らかにされなければならない。この「神話」を作る役割を果たした人たちも、その責任を取るべきだろう。だが、化けの皮をはいで一件落着とは思わない。メディアを舞台にして、多くの善意の人によって「神話」が拡散されていったプロセスこそが、もっとも検証されなければならないものだと思う。
江川 紹子

ジャーナリスト

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。

引用:彼はなぜゴーストライターを続けたのか~佐村河内氏の曲を書いていた新垣隆氏の記者会見を聴いて考える(江川 紹子) – 個人 – Yahoo!ニュース

そうゆうことで手加減せずに、とりわけ彼を持ち上げたメディアは、きっちり事実関係を検証すべきだにゃ。/ジャーナリスト江川紹子

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“Title : そうゆうことで手加減せずに、とりわけ彼を持ち上げたメディアは、きっちり事実関係を検証すべきだにゃ。/ジャーナリスト江川紹子
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佐村河内守氏の件については、彼が聴覚障害者だからとか、被爆二世だとか、そうゆうことで手加減せずに、とりわけ彼を持ち上げたメディアは、きっちり事実関係を検証すべきだにゃ。

— Shoko Egawa (@amneris84) 2014, 2月 5