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原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月8日

**** 原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年10月8日
<2014-10-08 水 08:42> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

金沢市場輸送から守田水産輸送に行った谷内さんも守田水産輸送で持ち込みをやっていると聞いていました。谷内さんは昭和59年のスルメイカのシーズンに入社しました。たしか初めての運行で新潟あたりの比較的近場だったと思いますが同行したことがありました。

谷内さんは珠洲市若山の人だと言っていたと記憶にあります。大工をやっていたともいい。話しぶりからすると自分で工務店でも経営していたような感じでした。

珠洲市の若山というのは珠洲市の中心部飯田から輪島の方に向かうと大谷峠の手前の辺りです。大谷峠を超えると大谷の町に入りますが、そこは能登半島の先端部分で輪島市内につながる外浦という海岸線になります。

大工を廃業していわゆる出稼ぎに出るという話は、当時小木や姫、宇出津を中心に聴いていたことでした。小木港の遠洋漁業が大打撃を受け、その煽りを受けたかたちで他の商売が立ちゆかなくなったと聞きます。当時はソ連ではなかったかと思いますが、それら国際的な二百海里問題によるものでした。

姫は当時宇出津と同じ能都町でしたが小木とは連接し、小木とは別に遠洋漁業をやっていました。遠洋漁業の良い時期は、石川県で住宅の新築率が1位だったとも聞いたことがあります。私の同級生の家も真脇で大工をしていましたが、ちょうどその頃廃業したと聴いていました。

小木港や姫では遠洋漁船が拿捕され操業ができなくなったとか、銃撃を受けて人が死ぬような事件もありました。八千代丸という船です。

ネットで調べたところ第36八千代丸事件は昭和58年7月28日のことのようです。知り合いも一人乗船していたと聞きますが、水産高校での被告訴人安田敏の同級生です。私の記憶では姫の船と聞いていたように思うのですが、確認できる情報はみつかりませんでした。

宇出津は遠洋漁業ではなく地場の漁港ですが、それでも当時は町の半分の人が漁業の関係者だと聞くこともありました。私の友人知人も、小木や姫の遠洋漁船に乗り組む人が多かったです。また、珠洲市の方でも同様にけっこういると聞いていました。

当時の小木港は珠洲郡内浦町でしたが、珠洲市の中心部の飯田の方とはけっこう離れているので、私の感覚としてはさほど影響もなさそうには思えていたのですが、連鎖的な影響というのはかなりのものがあったのかもしれません。

当時は宇出津の崎山でも自殺や夜逃げが横行していると聞いていました。崎山は私が小さい頃は畑ばかりの風景だったのですが、その後造成が始まり、私が中学生の頃にはすっかり新興住宅地となっていました。住宅ローンの支払いができなくなったということなのでしょう。

私の家は漁業とは無縁で、当時は金沢市で生活をしていたので、具体的実感というのは余りなかったのですが、小木や姫の漁船が拿捕されたというニュースはテレビや新聞でも見かけていましたし、相当に深刻な死活問題という認識はありました。

年々遠洋漁船の仕事をやめて普通の仕事をするようになったという周りの話も聞くようになりました。「丘に上がる」というような表現もします。現在では中型イカ釣り船に地元の若者は少なく、若者はほとんどがインドネシアの研修生だと聞いています。

気になるのは福井刑務所で班長から聞いた話でした。まだT班長がいた頃で、その場にはその後任と綯った班長もいたのですが、そちらの方は急に名前が思い出せなくなっています。と書いているうちにそれらしい名前を思い出したのでY班長ということにします。

ほとんど同時のような会話の状況だったのですが、発言はY班長だったと思います。被告訴人竹沢俊寿について知っている話をきいたときのことでした。能登の方とかで金貸しをして儲けている、という内容でした。T班長もよく知っていると相槌をうつような感じでした。

T班長には直接、被告訴人安田敏のことを知らないかとたずねたこともありましたが、これは知らないと言われました。ちょっと答えにくそうな雰囲気も感じたので、どうかとは思っていたのですが、被告訴人安田敏本人がよく知っていると後日話していたので、本当の答えではなかったことになりそうです。

二人の班長とも被告訴人安田敏が以前片町でバーテンをしていた店の店主の友達とかでよく見せに来ていたという話でした。この会話も録音済みで、記録を金沢地方裁判所に提出している可能性があるかと思います。

あくまで被告訴人安田敏の話なので事実かどうかはわからないですが、被告訴人安田敏がいうにはT班長も元と言っていたようにも思いますが、暴力団員で滝本組の組員だという話でした。

Y班長の方は自分で元組員とか、本当は組員のままになっているが執行猶予をもらって少しでも早く出所するために、組をやめたと偽っているとか話していました。同じく滝本組と聞いていたようにも思いますが、紺谷組と聞いた風にも思うのです。あるいは昔、紺谷組にいたという話だったかもしれません。

Y班長とそういう会話をしている時、私は被告訴人安田繁克のことを思い浮かべていました。被告訴人安田繁克も暴走族のリーダーをやっていた他、ヤクザの組員をしていたという話もしていたからです。

被告訴人安田繁克のその時の話では、事務所の方に顔を出さなくなり自然消滅のようなかたちでヤクザをやめ、その後世話になった兄貴分のような人物に顔を合わせたけど、何も言われずに済んだと言っていました。平成4年2月1日の夜のことです。彼と膝を突き合わせるような会話をしたのはその時だけ。

T班長に被告訴人安田敏のことをたずねたのは、T班長が片町で有名な人物で薬物事件に関わっていたからです。T班長に関しては既に本書で取り上げているところがあるかと思いますが、平成13年頃には金沢刑務所で私の運転手仲間だったYKと6工場で仲良しになっていると聞いていました。

能登での金貸しの話に戻します。そういえばと思い当たることがありました。昭和61年の秋のことかと思います。

<2014-10-10 金 15:58> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年9月19日

<2014-09-19 金 08:33> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

昨日の18日になりますが、午前中に宇出津の図書館に行き、北國新聞の縮小版を調べてきました。今回調べたのは平成3年の5月、6月、8月の縮小版でした。目的は被告訴人安田敏が多少関係があるように話していた違法薬物の密売事件のことです。

それと思われるものは6月に大麻の密売事件があって片町のディスコが舞台とも書いてあったと思います。ただ、内容を読んでいて、あまり関連もなさそうに思えたので、新聞報道の日付も確認せずに来ました。

関連の可能性がよりありそうだと思ったのは平成3年8月1日の記事にある事件でした。「覚せい剤 手配の密売人逮捕 金沢中署 喫茶店主に数グラム譲渡」「寺井署も5人逮捕」という見出しになっています。

内容を読むと金沢市の繁華街片町とは関係がなさそうですが、覚醒剤の譲り受けで公判中の被疑者が、以前支配人らがディスコに働いていて、覚せい剤の密売にも関わっていたことがわかっている、ときじにあります。

初めに6月だったと思われるディスコの密売事件の記事を読んだときは、大麻の密売だけという印象でいたのですが、いずれにせよかなりの数の被疑者の名前が出ていたものの、知っている名前や、聞き覚えのある名前は一つもありませんでした。

片町での丸西水産輸送の射殺事件は7月30日の記事になっていました。事件の発生も同日の2時台のことであったようです。

同日の新聞記事を読んだ時か、テレビのニュース報道で受けた印象で勘違いをしていたのだと思いますが、私はずっと射殺事件の起きた場所を、片町でも竪町に近い辺だと思い込んでいました。

<2014-09-25 木 09:01> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

原告訴訟代理人長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)による犯罪的関与の真相解明と社会的責任追及の必要性について 2014年9月17日

<2014-09-17 data-blogger-escaped-09:01=""> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

ラブロ片町 – Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AD%E7%89%87%E7%94%BA

ラブロという名前にも記憶に自信が持てなくなっていたので、確認を兼ねて調べてみました。アトリオに移ったのは昭和61年9月とのことです。個人的には、たぶんラブロになってからは一度も店に入ったことがない気がします。

飛び降り自殺があって客足が遠のいたという話も聞いたことがありました。大和デパートの頃は、屋上に近い階にレストランがあって、そこに何度か行ったという記憶が残っています。

そのラブロの裏辺りのスナックのような飲み屋でバーテンをしていると、不意に被告訴人安田敏から電話があったはずです。その電話のことは余り記憶には残っていないのですが、昨日書いたようにラブロの横の方から歩いて店を探したことが鮮明な記憶になっています。

店の名前は「ハートブレイク」だったと思います。わかりやすい名前で、昔聴いていた曲の歌詞にもある言葉でした。

よく考えてみると、その「ハートブレイク」という店で仕事をしているという被告訴人安田敏が、電話を掛けてきて、支払いはいらないから遊びに来いと誘ってきたこともありました。2回ほど同じような電話があったような気がしますが、これも記憶がはっきりしなくなっています。

誘われても店に行くことはありませんでした。長距離運転手という仕事柄、自宅アパートでは不在が多かったはずで、たまたま電話を掛けてきた時によくいたものだという気もしますが、妻から被告訴人安田敏から電話があったという伝言を聞くことはなかったように思います。

内藤として別になると思いますが、妻からの伝言で、被告訴人安田敏が内灘の海岸で車が砂にはまって動けなくなったので助けに来てほしい、という電話があったと聞いたことはありました。これは時系列で終わりの方の電話だったと思います。

その後、また電話があったのだと思いますが、電話のことは思い出せないものの、その時は初めて会う約束をしました。たぶん日曜日だったと思います。当時は記憶をしておく必要も考えてはいなかったので、時期がはっきりとは思い出せないのですが、平成2年の秋だったと思います。

それまでも忘れた頃に被告訴人安田敏から電話での連絡はありましたが、会うことは一度もなかったと思います。サムライというディスコで働き出したといううわさ話を聞く前から会ってはおらず、その時点を基準にしても一年以上は会っていなかったような気がします。

夕方でもまだまだ明るい時間、神田の陸橋の手前のバス停からバスに乗って片町に向かったことを憶えています。たぶん、その日の午後に被告訴人安田敏から電話があったのだと思います。

東力二丁目のアパートには昭和59年の4月頃から平成4年の4月1日まで8年ほど住んでいたことになるかと思いますが、車がないと不便があったものの、バスを利用するというのもほとんどないことでした。

初めにどこで待ち合わせをしたのか記憶にはないですが、片町のスクランブル交差点、当時もあったかどうかわかりませんが、ミスタードーナツがある建物の2階か3階あたりの店に入って、ラムネの瓶のような酒を飲みました。バーボンなのかと思います。

被告訴人安田敏に勧められるままに飲んだのだと思います。店員と話をするようなスタイルの店でもなかったですが、古い時代のアメリカのような雰囲気の店で、ジュークボックスがおいてあったと思います。

その店で話をした時だったと思いますが、バーテンの仕事をやめたと話していました。かなり不本意そうな様子で、愚痴をこぼしていましたが、会話の内容は今ではほとんど思い出せなくなっています。たぶん失業中だったのか、他に仕事をしているような話をしていたような気もするのですが。

この時、私は「ハートブレイク」という店のことだと思って話を聴いていたように思います。店でごたごたがあってやめるようになったという話だったと思いますが、ずいぶんと未練もありそうでしたし、悲しそうに話していました。

そのあとだったと思いますが、被告訴人安田敏の住んでいるというアパートに行きました。片町では他にも店に入ったような気もしますが、食事をしたかどうかを含め思い出せなくなっています。

被告訴人安田敏はアパートの住所を金沢市十三間町と言っていたように思います。片町の路地裏のはずれのような場所でしたが、その辺りには池田町というのもあります。瓢箪町のNMと末町のTHが住んでいたのも池田町でした。

Googleマップで確認をしたのですが、十三間町の方が犀川沿いに近いようです。その界隈の路地裏としては車も通るような比較的広い道で、店も何もなくなってしばらく歩いてから交差点の左側の角にあるようなアパートだったと思います。

アパートと言っても普通のアパートのような集合住宅という感じの建物ではなく、古い建物で下宿というイメージが強かったと記憶にあります。被告訴人安田敏の部屋は2階でしたが、それも普通のアパートのような間取りではなかったです。

雑然とした屋根裏部屋のような印象もあるのですが、アメリカ人のような生活スタイルというか、昔漫画の場面で見たアメリカの貧民街の部屋の一室のような、雰囲気になっていました。横長の部屋であったような印象もありますが、襖とか障子もなかったような気がします。

趣味のアクセサリー関係の物や衣服が多かったように思いますが、ずいぶんと物が多いという印象も受けました。いつからどれぐらい住んでいると聞いたようにも思いますが、それも私の記憶には残っていません。

そのあと、小立野の方に行きました。金沢大学附属病院の辺りで、ちょうどその正門の前辺りだったと思います。小立野は市内配達の受け持ちコースでもあったので、土地勘もありましたが、病院の前に飲み屋があるのも意外でした。

正確に言うと飲み屋というよりは、洋風のレストランと喫茶店の中間にも見えるような店でした。本当ならば海際の観光地によくありそうな建物の店でしたが、それが小立野にあるというのも、ずいぶんと意外でした。

半年ぐらい前になりますか、Googleマップのストリートビューで、小立野の大学病院の前あたりを見たことがあるのですが、すっかりと様変わりして以前の面影はあとかたもなくなっているという感じでした。

兼六園の裏の方から広い道が一直線に伸びていて、小立野辺りは古い町並みの商店街のようにもなっていましたが、兼六園の方から向かうと、左折して50メートルほどかの突き当りに大学病院の正門がありました。

その正門の手前左側の辺りに店はあったと記憶しているのですが、正門につながる広い道路より、左手の路地に入ったような一角だったという気がします。小立野の周辺というのは大学生が多いという印象もありますが、飲み会に使うような店はその辺りに集まっているような気もしました。

被告訴人安田敏に連れて行かれたその店でも、バーボンのようなウィスキーを飲んだように思います。ワインの瓶にも似ているかと思いますが、そういう瓶に入っているウィスキーを置いている店というのは、他には見たことも行ったこともなかったと思います。

かなりマニアックな凝った雰囲気の店でもありましたが、その店の被告訴人安田敏の友達か知り合いのような店主と思しき人も、ずいぶんと個性的な雰囲気でした。矢沢永吉によく似ていましたが、なりきりのようなこだわりも感じられました。

被告訴人安田敏はそういう飲み屋の雰囲気が好きだったのだと思いますが、本人の話では酒はそれほど好きではなく、晩酌のようなことをすることもないと言っていました。

今考えると被告訴人安田敏は余り酒が強くはなかったのかもしれません。たぶん昭和57年の鵜川の祭りでも、酒に酔って座り込む姿を見たことがありました。

私も当時は酒というかアルコールは飲む量が少なかったと思いますが、被告訴人安田敏もそれほど注文を繰り返して飲んでいるようにも見えなかったように思います。

どれぐらいの時間店に店にいたのかもはっきりとは思い出せませんが、店の外に出たところで、被告訴人安田敏がへたりこんでしまったのは印象的でした。座ったまま動かなくなったのですが、受け答えはしっかりしていて、ろれつが回らないようなこともなかったと思います。

被告訴人安田敏は私にタクシー代をくれたように思います。大丈夫だというので、そのまま帰って来ました。はっきりとは憶えていないですが、別れたのも22時とかそういう時間だったと思います。

中島みゆき わかれうた 歌詞 http://j-lyric.net/artist/a000701/l005ee2.html

ふと思い出して上記のように曲の歌詞を調べてみました。「途に倒れて誰かの名を叫び続けたことがありますか」と、上記ページでは道路の道ではなく途になっていましたが、その時もこの曲のことを思い出していたのかもしれません。別れ際に後ろ髪を引かれるような思いはありました。

小立野の手前が石引ですが、松原病院は石引が住所になっていたように思います。シンナー中毒で精神病院に入ったことで、被告訴人安田敏は周囲から偏見や仲間はずれを受けてきたような、一面もありました。

今思うとその後も私の方から連絡をすることはなかったのですが、しようと思っても直接アパートを訪ねる以外、方法はなかったとは思います。車で行けないことはない場所でしたが、片町の近くで酔っぱらいに車を蹴飛ばされる可能性もあり、駐車の場所もないので、車で行く気にはならなかったです。

人生の悲哀が漂った被告訴人安田敏の姿でしたが、その後彼からも連絡はありませんでした。

次にまた忘れていた頃に連絡を寄越してきたのが、平成3年の4月の終わり頃だったと思います。前回の別れが後ろ髪を引く、良心の呵責をおぼえるものであったことも、その後に影響をしたのだと思います。

<2014-09-18 木 09:02> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]