数年延期したからといってどうなるものでも・・・
裁判員制度の延期を決議 新潟県弁護士会(asahi.com 2008年03月03日23時53分)
裁判員制度の導入については私も批判的なのですが、この新潟弁護士会の決議の根拠・理由については少々突っ込みたいところがあります。
裁判員法が成立した経緯について「国民一般の声を十分にくみ取っていない」
これはそのとおりでしょうね。
しかし
民主的な討議を経た上で国民の納得を得るべきだ」と主張している。
この点については、いったいどういう方法で討議をし、国民の納得の有無をどのようにして確認するのでしょう。
裁判員制度は国会の定めた法律に基づいて導入されているのですが、それ以上に民主的な方法というと国民投票でもするのでしょうか?
提案者代表の高島章弁護士は「民主的でない方法で裁判員制度を導入しても、『司法の民主化』は図れない」と話している。
法律による導入を「民主的でない」とまで言い切っちゃってます。
もっと端的に反対したほうが説得力があるような気がするのですが・・・
ところで、私の認識では弁護士会(の少なくとも一部)は、ずっと以前から陪審制の導入を主張してきたはずなんですが、それと
また、裁判員裁判の審理期間が3日程度とされていることについて「いたずらに迅速性を求めるのは『粗雑司法』というほかなく、適正手続きに反している」と指摘。
していることと、現実的整合性があるのか疑問です。
追記
高島先生は、今の裁判員制度を手直しすれば実用に耐えると思っているのか、それとも一旦白紙に戻したほうがいいと思っているのかどっちなんでしょう。
直感的には後者かなと思うのですが、それなら延期と言わずに廃止と言った方が論理的ではあります。
しかし、そう言っちゃうと一部の極論として無視される可能性がある(高速度で走っている車で急ハンドルを切っても曲がらない)ので、まずはブレーキということなんでしょうか。
モトケン (2008年3月 4日 02:36) | コメント(58) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:数年延期したからといってどうなるものでも・・・ – 元検弁護士のつぶやき
裁判員制度における評議の適正の確保
別エントリで、倶利伽羅(弁護士)さんから以下のコメントがありました。
もしこれを無批判に許せば、「法律上は執行猶予も一応可能だけれども、常識的に見てありえない。」などと不当な説明がされたり、または、責任能力が争われる事案で、医療観察法(これ自体悪法ですが)による処理をあえて秘匿して、「心神喪失にしたら無罪です。この人がすぐ社会に出るけどいいのですか。」という不当な誘導がなされることはすぐに予見できます。
この意見は、裁判員に対する裁判官による不当な誘導の危険性を指摘されているわけですが、もちろん最高裁としてはそのような評議のあり方を不適切であると考えているはずです。
しかし、意図的であるか否かにかかわらず、裁判官から裁判員に対して不適切な誘導がなされる可能性はかなりの蓋然性をもって存在すると思われます。
たぶん、裁判官が意図的に、つまり強度な自制をもって誘導を回避しようとしても誘導を文字通りの意味で完全に排除することは困難だろうと思います。
そのような現実を直視すれば、不適切な誘導という弊害を減らしていくための方策が必要になるはずですが、そのためには、実際の評議を事後的に第三者が検証する仕組みが不可欠と思われます。
しかし、現在、そのような仕組みがあるのでしょうか?
評議の秘密を前提にして、そのような検証が可能かどうかも疑問があります。
悲観材料がまた一つ明確になったように思います。
モトケン (2008年3月 7日 14:44) | コメント(21) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:裁判員制度における評議の適正の確保 – 元検弁護士のつぶやき
裁判員の日常と裁判の非日常
このエントリは「無罪推定の原則とネクタイ」の続編です。
ネクタイをきちんと締めている人は「真面目な勤め人に見える。」という日弁連の感覚はごく普通の犯罪などとは縁のない一般市民の日常的な感覚だろうと思います。
しかし、裁判員の前で展開される刑事法廷というのは日常世界ではありません。
身柄拘束中の被告人は、手錠をされて腰縄を結ばれて法廷に入ってきます。
たしかに初めてそのような姿を見る人(裁判員)にとっては衝撃的な光景だと思います。
昔、検察庁に出入りしていた保険外交員の人に、「初めて見たときはショックだった。」という話を聞いたことがあります。
そして、その被告人は検察官から犯罪者だと指弾されているのです。
それも万引きや喧嘩の類ではありません。人を殺した者と言われているのです。
そして、通常、すでに1か月以上、場合によって数か月以上自分の意思に反して身柄を拘束されているのです。
被告人にとっても非日常的なそのような状況は、被告人の心身に目に見える影響を及ぼす場合があります。
もし、その被告人が無実の冤罪被害者であったなら、その被告人が置かれている状況というのは不条理の極みというべき非日常世界です。
その被告人が真犯人であったとしても、正直に反省している被告人であるとは限りません。
あらゆる手段、つまり嘘八百や可能な限りの罪証隠滅工作を行って自己の罪を免れようとしているかも知れません。
被告人が、「私は無実だ!」と叫ぶとき、その被告人が冤罪被害者であるのか罪を免れようとしている狡猾な真犯人であるのかは、ネクタイをしているかどうかによって区別できるようなものではありません。
何が言いたいかといいますと、
日弁連は、本来的に非日常的な状況に、日常感覚を持ち込もうとしている誤りを犯しているのではなかろうかという危惧です。
非日常の世界を日常の基準に従って見てしまった場合、真相に迫ることは極めて困難になるだろうと思われます。
すでに、前エントリのコメント欄で指摘されているところですが、日常感覚の見た目を問題にするよりは、裁判員に対して裁判および被告人の置かれている状況というものは非日常の世界なのであるということを理解させることこそが重要なのではなかろうかということです。
そして日弁連の主張は、単に優先順位を誤っているだけでなく、裁判が非日常であるという最も重要な理解から裁判員を遠ざけてしまう危険があるように思われます。
私は全エントリの最後で
木を見て森を見ないような対策や、木ばっかり見ることによって森が見えなくなるような対策、または森を見えなくするための対策だったりすれば、そんな対策をとらなければならないということは裁判員制度などできる状況でないということです。
と書きましたが、それは何が木で何が森かを見定めないと、結果的に「森を見えなくするための対策」になってしまわないかということを恐れたからです。
モトケン (2008年3月21日 22:35) | コメント(23) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:裁判員の日常と裁判の非日常 – 元検弁護士のつぶやき
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