自分の経験を絶対視してはいけないが、冤罪は組織的に生み出されると思っている。警察内部の事情は必ずしもわかりかねるが、警察と主任検事との関係、主任と上司との関係など、冤罪が起訴されるまでの内部のあらゆる思惑やせめぎ合いがあるはずである。そういうものを解明していきたいと思っている。
— 弁護士 市川 寛 (@imaloser15) 2015, 2月 10
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ただ、困ったことに、例えば確定裁判の記録からは、こうした内部事情はなかなか見えてこない。それでも自分の罪深い経験に照らして/市川寛弁護士
ただ、困ったことに、例えば確定裁判の記録からは、こうした内部事情はなかなか見えてこない。それでも自分の罪深い経験に照らして、例えば調書からいくらかは透けて見えるものはあると思う。
— 弁護士 市川 寛 (@imaloser15) 2015, 2月 10
言うまでもなく、冤罪は過去の歴史物語ではなく、今もどこかで誰かが(本意か不本意かはともかく)生み出しているものである/市川寛弁護士
言うまでもなく、冤罪は過去の歴史物語ではなく、今もどこかで誰かが(本意か不本意かはともかく)生み出しているものである。さらに、冤罪にはある程度のパターンがある。これすなわち冤罪が生み出される内部事情にも何かしらのパターンがあるはずである。
— 弁護士 市川 寛 (@imaloser15) 2015, 2月 10
少なくとも自分の検事時代は、犯人性を否定された無罪判決が出ても、検察庁で「冤罪」という言葉を使って反省した会議は見たことも聞いたこともない/市川寛弁護士
少なくとも自分の検事時代は、犯人性を否定された無罪判決が出ても、検察庁で「冤罪」という言葉を使って反省した会議は見たことも聞いたこともない(大した検事ではなかったので、どこかでやってたかもしれないが)。
— 弁護士 市川 寛 (@imaloser15) 2015, 2月 10
ただ、冤罪とは言わなかったが「タマ違い」つまり犯人でない人を起訴するのは最悪だという教育は受けた。逆に言うと、/市川寛弁護士
ただ、冤罪とは言わなかったが「タマ違い」つまり犯人でない人を起訴するのは最悪だという教育は受けた。逆に言うと、タマ違いでなければ無罪になっても「最悪」とまで叱責されることはなかったわけである。
— 弁護士 市川 寛 (@imaloser15) 2015, 2月 10
たしかに、例えば殺人で起訴したが判決で殺意を否定された場合、その被告人が「やった」ことは間違えなかったのだから、最悪ではないかもしれない/市川寛弁護士
たしかに、例えば殺人で起訴したが判決で殺意を否定された場合、その被告人が「やった」ことは間違えなかったのだから、最悪ではないかもしれない。しかし、身柄拘束の問題などを踏まえると、もう少し深刻に受け止めるべきかもしれない。
— 弁護士 市川 寛 (@imaloser15) 2015, 2月 10
その限りでは、殺人か傷害致死かは法廷で決めるというラフな姿勢の起訴も、けっして直ちに批判されるべきではないと思う/市川寛弁護士
他方で、殺人で起訴するからには判決も絶対に殺人でなければならないという縛りがきつくなると、翻って、起訴段階での殺人での有罪推定報道をなくすことはできなくなるだろう。その限りでは、殺人か傷害致死かは法廷で決めるというラフな姿勢の起訴も、けっして直ちに批判されるべきではないと思う。
— 弁護士 市川 寛 (@imaloser15) 2015, 2月 10
「間違いのない起訴をすることによる検察の傲慢化と有罪視報道の問題」と「ラフな起訴をすることにより検察が失うかもしれない信頼の是非と有罪視報道の沈静化」のどちらが/市川寛弁護士
私は、ずっと前から「間違いのない起訴をすることによる検察の傲慢化と有罪視報道の問題」と「ラフな起訴をすることにより検察が失うかもしれない信頼の是非と有罪視報道の沈静化」のどちらが望ましいのか、迷っている。
— 弁護士 市川 寛 (@imaloser15) 2015, 2月 10
そして、起訴に間違いがないと信じる検察が、無罪判決に延々と抵抗を続けるみっともない現象も続くだろう。「検察司法」の最悪の弊害である/市川寛弁護士
検察が起訴を間違えてはならないという命題を今後も肯定するならば、どうしても捜査は「緻密または精密」になり、被疑者には過酷な手続となろう。そして、起訴に間違いがないと信じる検察が、無罪判決に延々と抵抗を続けるみっともない現象も続くだろう。「検察司法」の最悪の弊害である。
— 弁護士 市川 寛 (@imaloser15) 2015, 2月 10
同僚だか友達から「頑張れよ」みたく声をかけられていた場面が忘れられない。被告人にされても、(地域)社会があの映画のようであってくれればと思う/市川寛弁護士
二回試験が終わった直後にヒチコックの「間違えられた男」をテレビで観たとき、起訴された主人公が普通に(?)職場に行き、同僚だか友達から「頑張れよ」みたく声をかけられていた場面が忘れられない。被告人にされても、(地域)社会があの映画のようであってくれればと思う。
— 弁護士 市川 寛 (@imaloser15) 2015, 2月 10