= #### 短編アニメ「ダム・キーパー」の長編化決定のニュースと、アニメと弁護士の世界観の相違及び弁護士による社会汚染の被害と行方について ####/告訴状作成の下書き

<2015-03-18 水 09:55> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

さきほどTwitterの検索で知った情報ですがダム・キーパーの長編化が正式決定したとのことです。私は最新の情報をTwitterの検索で調べることが多いのですが、検索キーワードを含めたURLは次のようになります。

– ダム・キーパー – Twitter検索 https://twitter.com/search?src=typd&q=%E3%83%80%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC

個人ではないと思われる関連ツイートもひとつご紹介しておきたいと思います。

– 投稿者:cinematoday(シネマトゥデイ) 日時:2015/03/16 13:52 ツイート: https://twitter.com/cinematoday/status/577331473394446336

次にリンクにある記事から一部を引用してご紹介させてもらいます。

> 短編の数年後を舞台に、豚の少年が風車を動かすことで街の外に追いやっていた汚染された空気はどこからやってくるのかなど、短編では明らかにされなかった謎が解明されるようだ。グラフィックノベルは2部作となり、第1作は2016年の出版を予定している。(編集部・石神恵美子)

まずは、長編化されるような情報は日曜日の夜辺りに見ていたのですが、正式決定されたということでとてもうれしく思っています。

初めに「ダム・キーパー」というアニメのことを知ったのはテレビで今年の1月の中頃のことでした。後になって防毒マスクをした主人公の場面を、一年ほど前かかなり前に朝の情報番組で見たように思ったのですが、防毒マスクの場面以外は一切記憶に残っていませんでした。

後になっても思うことですが、主人公のブタの少年が防毒マスクをつけた姿は動物のブタにはみえません。防毒マスクの場面がとりわけ印象的でその一点のみが記憶に刻まれたというのも、以前、刑務所でみた映画のことを思い出したからです。

今からネットで検索をしてみようと思いますが映画のタイトルは「ビューティフルライフ」ではなかったかと思います。ビューティフルときくと私の世代ではある曲のことを思い出すのですが、それもアニメとの関連であとで触れたいと思います。

どうも映画のタイトル名を間違えていたようです。ただ、この間違えで思わぬ収穫もありました。「ビューティフルライフ」という日本のドラマで視聴率が40%を超えたという情報に接したことです。そのドラマのことは全く知りませんでした。内容も調べていないのでわからないです。

正しくは「ライフ・イズ・ビューティフル」という映画の題名でした。ビューティフルライフに収容所をつけて検索することですぐに見つけることができました。次にwikipediaのページと、そのページの一部を引用させてもらいご紹介します。

– ライフ・イズ・ビューティフル – Wikipedia http://bit.ly/1GZRjg2
> やがて戦時色は次第に濃くなり、ユダヤ人に対する迫害行為が行われる。北イタリアに駐留してきたナチス・ドイツによって、3人は強制収容所に送られてしまう。
>
> 母と引き離され不安がるジョズエに対しグイドは嘘をつく。「これはゲームなんだ。泣いたり、ママに会いたがったりしたら減点。いい子にしていれば点数がもらえて、1000点たまったら勝ち。勝ったら、本物の戦車に乗っておうちに帰れるんだ」。絶望的な収容所の生活も、グイドの弁術にかかれば楽しいゲームに様変わりし、ジョズエは希望を失うことなく生き延びることができた。
>
> ナチスの撤退後、ゲームの「シナリオ」通り収容所に連合軍の戦車が現われ、ジョズエたちを解放する。ジョズエは母と再会することができたが、そこに最後まで息子を守りぬいたグイドの姿はなかった。
>

引用部分は告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(@kk_hirono)には投稿していません。早い段階でブログの記事にする予定でもあるので、見づらく誤解を招く可能性のあるかたちでの引用は避けることにしています。

金沢刑務所でみた映画だったと思いますが、時期や観た状況のことは思い出せなくなっています。刑務所で映画や録画のドラマを観る機会はいくつかあり、誰でも見れる機会のあるものと一部の受刑者のみ観るものがありました。

基本は平日の週2回で、ゴールデンウィークやお盆休み、正月休みは特別な放送もありました。これは居室に備え付けの小型のテレビでみるものです。

体育館のような講堂でみるものは昔の映画館と同じようなスクリーンの上映でしたが、これは3,4級者集会、1,2級者集会があって、3,4級者集会は3月に一度、1,2級者集会は月に1度の開催で、お菓子を食べながら映画をみていました。

他に無事故者集会というのもありましたがお菓子は出ないので辞退者も多かったように思います。他にも年に2回ぐらいは慰問の代わりという感じで全員を対象にした映画の上映があったように思います。

全員と言いましても全部の収容者ではなく、工場出役をしている受刑者のみが対象です。懲役刑の基本は工場出役による刑務作業ですが、まれに独居房で軽作業のみをやっている昼夜独居と呼ばれる処遇の受刑者もいました。。

私が金沢刑務所で服役したのは平成11年8月の事件で、判決が確定したのが平成12年の9月の20日頃ではなかったかと思いますが、そのあと分類審査と、確か2週間ぐらいの新入教育をへて5工場におりたのは平成12年の11月の初めだったと思います。

満期出所だったので釈放される一週間ほど前までは5工場にいました。仮釈放の場合は2週間前だったように思います。満期で釈放されたのが平成13年12月31日だったので、12月の20日頃まで工場にいたことになります。ずっと同じ5工場でした。

そういえば一度だけアニメで「タッチ」が放送されたことがありました。居房内でのテレビ視聴のことです。これもレンタルビデオと同じようなビデオ放送の場合と、テレビの録画の場合がありました。テレビの映画番組の他、いわゆるサスペンスドラマも多かったです。

金沢刑務所の受刑者は暴力団関係者が多く、再犯刑務所なので何度もあちこちの刑務所に服役の経験のあるという受刑者がほとんどでした。間接的になりますが全国の刑務所での話を聞く機会も沢山ありました。

その中の一人の受刑者がアニメの放送など刑務所ではあり得ないと言って、ずいぶんと驚いていたのがアニメの内容より印象的に記憶に残っています。

刑務所では一般の土日祭日のことを免業日と呼んでいました。工場出役のない日です。拘置所も同じですが午睡という時間があって布団を敷いて寝ることが出来ました。必ず布団を敷く必要はないのですが、ほとんどが実際に昼寝をする時間だったので、静かにしなければならない時間です。

免業日の午睡の時間は、福井刑務所では1時間でしたが、金沢刑務所では2時間でした。金沢刑務所は13時から15時までだったと思います。金沢刑務所の場合、15時に午睡が終わって16時過ぎには夕食になっていました。この間に30分ほど、テレビの録画の放送がありました。

放送内容はいくつかあったと思いますが、多かった一つが「情熱大陸」という番組です。初めにボクシングの亀田兄弟のことを知ったのも、この番組を刑務所の録画放送で観た時だったと思います。

現在、日曜日の夜は22時辺りから始まるMr.サンデーという情報番組を観ることが多く、そのあとは特に観たい番組もないまま同じチャンネルにしていることが多いかと思うのですが、この前の日曜日は久しぶりに情熱大陸をみました。ゲストがダム・キーパーの監督だったからです。

番組の中で堤大介監督は旅という言葉を何度か使っていましたが、それもまた印象的で考えさせられる言葉でした。細かいところを書くときりがなくなるのですが、今年の1月の中頃にダム・キーパーという作品に出会って、私の世界観も社会との関わり方も方向性が変わってきたと思います。

時刻は17時29分です。告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(@kk_hirono)のツイートで確認したところ11時22分からの中断でした。

宇出津新港に買い物に行ってきましたが、買い物の前に堤防を歩いて散歩がてらの釣り見物をしてきました。家に戻ったのは13時30分ころだったと思います。

どうしたものかと判断に迷っていた小倉秀夫弁護士のことですが、一つのツイートを見たことで、@付きのツイートを一つ送りました。その直後にミヤネ屋の全国ニュースで、美濃加茂市長事件の検察控訴の報道に接しました。

いくらか過激で挑発的とも思いますが、小倉秀夫弁護士には次のツイートを送りました。今のところ返信はないようです。返信と言いましても小倉秀夫弁護士の場合、Twitterの仕様に則ったツイートのやり取りというのが、殆ど無いという特徴もあります。いわゆる非公式RTかと思います。

今夜から天気が崩れるという予報が出ていたので宇出津新港まで買い物に行ってきたのですが、ダム・キーパーに関する記述を中断することは戸惑いもありました。いい感じで波に乗れてこれからという状態でもあったからです。

昨日の夕方19時からは近所で常会という集まりがあってそれに参加をしました。「じょうかい」と耳で聞くだけですが、これ以外の漢字というのもなさそうです。その常会に呼ばれて参加したのは今回が初めてだと思います。

近所の所属する班の集まりに参加したのは2回目でしたが、前回は昨年の6月ぐらいだったと思いますが、同じ班にお葬式があって、そのお手伝いの話し合いに参加をしました。

私は宇出津の小棚木という町内ですが8版と聞いているので8つの班にわかれているものと考えられます。家の前の道路を挟んで向かい側は音羽町という別の町内になるので、近所と言ってもさらに範囲が限られてきます。

その近所の人と顔を合わすこともまれですが、中学生の頃から見知っている顔の人もいます。おそらく私が相手を知るよりは、相手の方が私のことをよく知っていると思います。家が織物工場をしていたのも理由の一つですが、工場もやめて30年ぐらい経ちます。

私は昭和56年の6月に高校を中退して7月の初めぐらいから金沢市に出て仕事をするようになりましたが、点々とした仕事も長続きせず金沢と宇出津の間で遊びまわっていました。

ようやく落ち着いて仕事に専念するようになったのが19歳の時、昭和59年のことで、それが本件告訴事件の舞台の一つでもある金沢市場輸送でした。その時点で工場がまだ続いていたかどうかも記憶にありません。すでになかったようにも思います。

最後に記憶にあるのは昭和56年の12月頃のことでその時点では工場があり、7,8人ぐらいのおばさんが機織りの仕事をしていました。ほとんどが近所のおばさんだったと思いますが、一人だけ小木から通っているというおばさんがいて、昼食は母親と一緒に食べていました。

工場をやめて2,3年後のことだったように思うのですが、母親に言われて工場で仕事をしていた近所のおばさんのお見舞いに宇出津病院に行ったことを憶えています。

母親とも仲が良さそうには思えなかったですが、私も反発心が強い相手でした。そのおばさんが涙を流しながら私になにかを語りかけていたことをとても印象的に憶えているのですが、何を話していたかは記憶にありません。

癌で先が短いということはお見舞いに行く前に聞いていましたが、そのあとまもなく亡くなったと聞きました。前の宇出津病院の建物で二階の一番奥の方の病室でした。昭和60年か昭和59年のことだったと思います。

亡くなる運命の人に接したというのも数少ない体験でしたが、葬式に参加したのも昭和40年代の中頃が記憶に残る最後でした。その葬式で宇出津の父方の親戚の家にいるとき、ラジオで沖縄の本土返還かあるいは日中国交正常化のニュースを聴いていたことを記憶に残しています。

昨年の近所のお葬式では出棺の手伝いだけにしてもらいました。本当は葬儀の式場まで行っていろいろとお手伝いするのが決まりらしいのですが、礼服をまったくもたないということで勘弁してもらったのです。

そういう近所との接触があったのも昨年が初めてでしたが、同級生の家の人が班の係になったということで声が掛かったのです。最近になって回覧板を回す係の人は変わったようですが一声も掛けずに家の前に無造作に置いて行くので、どこの誰かもわかっていません。

昨日の常会には10人弱ぐらいの人が集まっていたように思います。昨年の葬儀の話し合いの時よりは参加者も少なかったように思います。このうち二つの家族も、同じ宇出津の被告訴人に関わりがあります。現在もどの程度の付き合いが続いているのかも不明ですが、プライバシーもあるので。

金沢に出て宇出津に滅多に帰らなくなったのも金沢市場輸送で長距離運転手の仕事を始めた昭和59年以降のことですが、それ以前の近所というのはおばさんが、特定の近所の息子を槍玉に挙げて憂さ晴らしをするような習慣が残っていました。私はそのやり玉にもあげられたくちです。

本書でも既に書いたようにも思いますが、その昭和59年頃の宇出津というのは遠洋漁業の二百海里問題で町全体が深刻なダメージを受けていました。噂話のような感じで耳にしていたことですが夜逃げや自殺が続出していると聞いていました。

それから何年経ったか憶えていませんが、漁業の問題もさっぱり耳にしなくなった頃、景気がよくなったという話も聞かないのに、新築に建て替える家も宇出津の町で目につくようになった頃、誰からかそういうのはほとんどが生命保険によるものだと聞いたのも印象的でした。

地域経済に深刻なダメージを及ぼした遠洋漁業は宇出津ではなく当時、珠洲郡内浦町だった小木や同じ能都町の姫の話でした。ただ、宇出津からも遠洋漁業に携わる人は多く、大工にしても遠洋漁業の不振で仕事がなくなれば資材を含め業界全体が深刻な余波を受けると聞いていました。

私の家は織物工場をしていましたが、京都の親戚の仕事をやっていたので、漁業の問題というのもほとんど影響はなかったと思います。ただ、詳しい事情はしりませんが、その漁業不振の地域の問題と同じ頃に、工場をやめていました。

昭和59年からは基本的にお盆と正月休み以外は宇出津に帰らず金沢で生活をしていました。宇出津のあばれ祭りに家族を連れて帰ったのも一度だけのことで、昭和63年だったと思います。

金沢市場輸送での仕事では基本的に休みはとりませんでした。長距離運転手という不規則な仕事なので休みの定義自体も独自性があるのですが、丸一日仕事から離れるというのは少なかったと思います。

丸一日の休みとして考えられるパターンは、土曜日の夕方に会社を退社して月曜日の朝に出社するというごく普通の形態かと思いますが、そういうのも少なかったです。給料のシステムで休日の加算が大きい仕組みになっていたこともありますが、休みはとらないようにもしていました。

土曜日の午後に東京とかで荷物を積んで、日曜日の昼頃には家に戻り、月曜日の朝に北陸で積んできた荷物をおろすまで、ゆっくりするというパターンが多く、当時はそれでも十分な休みのように思えていました。

土曜日の午後に北陸で荷物を積んで、日曜日の午後や夕方遅くに出発するというパターンも多かったと思います。それでは休みにならない計算になっていたかと思います。

同じ金沢の運送会社でも中西運輸商では、夜遅く22時か23時頃から九州の福岡の佐川急便で荷物を積み始め夜中の3時頃に出発をして夕方に金沢で荷降ろしが完了しても、予備の待機を兼ねて23時頃までホーム作業を手伝わずに帰ったら、半日扱いの計算にしていました。

そういう計算で休みの勘定をして4日だったかの休みを超えると基本給を含め大幅な手当のカットをするというのも特徴でしたが、会社の指示に従って連絡をとったりしていれば、暇な時期などは休みのような自由時間も多いということもありました。

中西運輸商の場合はとりわけて条件が悪く仕事内容がきつかったので、金沢市場輸送の方ははるかに良心的にも思え、仕事も楽に感じていました。そういう体験が他の運転手とはまるで異なるギャップにもなっていたようですが、会社としてはとても好都合でもあったようです。

私が金沢市場輸送で長距離の仕事をしていた時期というのはちょうどバブル景気のまっただ中だったので、仕事はいくられもあるという状況でもありました。社会全体が浮かれた時期だったとも思いますが、昭和59年の時点では金沢市場輸送も青色と息の状態だと聞いていました。

4トン車の長距離で給料が月20万円とほぼ固定されていました。売上が80万円を超えると歩合がつくという話にはなっていましたが、80万円の売上を超えるだけの仕事もほとんどなかったのです。

これは市場急配センターでの市内配達の仕事と同じかそれ以下の給料でした。高速道路の使用も渋られて鮮魚を積んでも下道を走っていたので、仕事内容は比較にならないほどきついものでしたが、そういう体験もあとあとの財産にはなったかと思います。楽勝すぎるぐらいだからです。

見知らぬ土地で夜中に場所を探したり、鮮魚を積んで時間ギリギリで走ったり場内で荷降ろしの作業をすることを考えれば、市内配達の仕事など恵まれすぎた好条件にも思えました。長距離の運転手には市内配達の仕事など嫌がる向きも強かったのですが、私は何でも出来た方が良いという考えでした。

この項目のテーマとは関連の薄いことも書いてきましたが、いずれどこかで書いておく必要を感じていた事実や経過の一部です。この項目ではアニメを一つのテーマにしていますが、平成9年1月18日の夜、宇出津駅でのことを書くのが主要な道筋です。

これは「さらば弁護士鉄道」という最近になってツイッターアカウントののプロフィールの名前にも加えた言葉にも関連している。過去を振り返った世界観の主要なテーマの一つです。

時刻は19時47分になっています。そろそろ中断をして夕食のカレーライスを作ろうかと思っていたところですが、深澤諭史弁護士のツイッターで、これまでになくわかりやすい私にとって問題性のあるツイートを発見したので、言及するかどうかは別にとりあえずご紹介しておきます。

– 投稿者:fukazawas(深澤諭史) 日時:2015/03/18 15:16 ツイート: https://twitter.com/fukazawas/status/578077475697086464

かねて純粋培養された弁護士マシーンとも思い注目を続けている深澤諭史弁護士のツイートです。廣野秀樹(@hirono_hideki)ではだいぶん前からブロックされています。告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(@kk_hirono)では最終確認の時点でブロックされていないようでした。

時刻は3月19日8時37分になっています。昨夜の最後の投稿を告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(@kk_hirono)で確認したところ19時53分になっていました。予定通りカレーライスを作って食べましたが、片付けをしたあとも再開することはなかったようです。

テレビも電気もつけたまま寝ていて、起きたのは7時前だったのですが、眠った時間というのも思い出せずにいます。ニュースZEROの途中で眠ったように思うのですが、報道ステーションと同様に美濃加茂市長事件の控訴審のニュースをみることはありませんでした。

昨夜は、平成9年1月18日の福井刑務所出所当日の夜のことを書こうと思っていたのですが、気分が乗らなくなってどうしたものかと考えながらテレビをみているうちに寝てしまいました。気分が乗らなくなったというのはそのことに集中して思い出せなくなったということでもあります。

他の出来事や問題とも繋がっている部分があるので、またの機会に取り上げたいと思いますが、タイトルには「弁護士鉄道の夜」を含めたいと思います。

この項目ではアニメについても取り上げる予定でいました。アニメ界の巨匠とも呼ばれていたと思いますが宮崎駿監督と容貌がよく似ているといわれる高野隆弁護士について書くつもりでいました。

一つのきっかけは昨日、ジャーナリスト江川紹子さんのツイートに関連して、その高野隆弁護士がFacebookをやっているらしいことを知ったということもあります。次のツイートになりますが、直接見たのはは旭川市在住らしい元裁判官の弁護士のツイートです。

– 投稿者:amneris84(Shoko Egawa) 日時:2015/03/18 12:10 ツイート: https://twitter.com/amneris84/status/578030716518182912

実際にFacebookのアカウントを調べて確認したのは夜遅くのことでカレーを食べた後だったように思います。記録も兼ねてツイートをしていますので、そちらを掲載しておきたいと思います。

– 投稿者:hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社物語) 日時:2015/03/18 22:52 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/578192128389566464

高野隆弁護士がFacebookをやっているとは初めて知りましたが、Facebookはビジュアル的要素も強く個性が出るので、以前見ていたブログの方とはかなり異なる印象も受けました。理科室にあるような人体模型の脳を手に持っているのですから、メッセージ性も伝わります。

やる気もなかったのでFacebookの記事の方はほとんど読んでいません。

高野隆弁護士について注目をするようになったのは刑裁サイ太という匿名弁護士のツイートがきっかけでしたが、2ヶ月ほど前になるかもしれません。ここで次にそのツイートを掲載しておきたいと思います。

– 投稿者:uwaaaa(サイ太) 日時:2015/01/19 13:37 ツイート: https://twitter.com/uwaaaa/status/557034003010551808

これは次のツイログの検索のURLを保存していたもので、端末から右クリックメニューでブラウザに開きました。最近のLinuxでは端末上のURLにマウスを合わせ右クリックメニューを出すと「リンクを開く」というのがあって便利です。

サイ太(@uwaaaa)/「高野」の検索結果 – Twilog http://twilog.org/uwaaaa/search?word=%E9%AB%98%E9%87%8E&ao=a

今回、ツイログのページを開いて気がついたのですが、同じ内容の高野隆弁護士の名前が出てくるツイートを2013年と2014年にもしていたようです。「刑事弁護の大家」とあります。

これは確か、同じ宮崎でも宮崎の弁護士が被疑者が隠し撮りをしていた盗撮ビデオを使って被害者に示談交渉をしたという問題について調べていた時、同じ宮崎というキーワードで出てきたようにも思います。その時点では私の刑裁サイ太に対する注目でも低かったと思います。

その時点ではブラウザのブックマークにも登録していなかったように思いますし、まとめて弁護士アカウントのURLをブックマークに登録したのは、もっと後のことであったようにも思います。

刑裁サイ太に関しては国選弁護のことで一時注目したことがあり、本書でも取り上げることを迷ったこともあったのですが、あれもこれもというわけにもいかないので、却下したという経緯もありました。昨年の12月の頃だったかもしれません。

– 廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社物語(@hirono_hideki)/「刑裁サイ太」の検索結果 – Twilog http://bit.ly/1Gr3hMq

上記のように「刑裁サイ太」をキーワードにツイログで検索をし、古いものから先に表示するボタンをクリックしました。初めに出てきたのが私がリツイートしたもので、そのあとに直接リンクを取り上げたツイートがあります。次にその2つのツイートを掲載します。

– リツイートしたアカウント):hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社物語) 日時:2014/12/23 23:37 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/547400569640325120
– 元のツイート)→ 投稿者:uwaaaa(サイ太) 日時:2014/12/23 22:01 ツイート: https://twitter.com/uwaaaa/status/547376388450172928

– 投稿者:hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社物語) 日時:2014/12/23 23:44 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/547402382200832002

ツイログなのでリツイートしたアカウントのURLを取得出来ました。APIで直接特定のアカウントのツイートを取得した時もこのURLを取得できるのですが、通常の場面ではリツイートしたURLの取得は出来ず、リツイートしたツイートそのもののURLの取得になってしまいます。

刑裁サイ太の元のツイートの投稿日時が2014年12月23日22時1分ということと、私がリツイートした日時が2014年12月23日23時37分ということがわかります。

刑裁サイ太のブログの記事のリンクになっていますが、どうもこれは以前の記事の再燃で、ちょっとした炎上状態になっていたようです。主戦場のようになったのはFacebookの方だという情報もいくつか見かけましたが、そのFacebookの情報を見ることは出来ませんでした。

弁明書とかいうタイトルのページを確認したのですが、問題になった元の記事はリンクもついていませんでした。次の記事になりますが、記事の日付が2014年5月8日になっていました。

– 国選弁護事件で稼ぐ方法 – 刑裁サイ太のゴ3ネタブログ http://keisaisaita.hatenablog.jp/entry/2014/05/08/222015

どうも同業者の弁護士の方から品位を貶めるので懲戒請求すべし、という声があがったようで、それがFacebookの方であったようです。割と著名で実績のある弁護士というような情報もちらりと見かけましたが、特定には至らず、そのFacebookの記事も見ることは出来ませんでした。

次の検索をやってみました。刑裁サイ太がコミケで自作の出版物の販売をしたという話です。ずいぶんな反響があったようにも書いていて大満足な様子でもありましたが、部数は驚くほど少ないもので、それでも当の本人には予想外の成果であったようです。

– 廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社物語(@hirono_hideki)/「大嘘」の検索結果 – Twilog http://twilog.org/hirono_hideki/search?word=%E5%A4%A7%E5%98%98&ao=a

次のツイートで12月30日のことと確認しましたが、年末という記事も意外でした。31日のツイートも一つつけて掲載します。

– リツイートしたアカウント):hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社物語) 日時:2014/12/30 12:18 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/549766573276164097
– 元のツイート)→ 投稿者:uwaaaa(サイ太) 日時:2014/12/30 06:16 ツイート: https://twitter.com/uwaaaa/status/549675410439413760

– リツイートしたアカウント):hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社物語) 日時:2014/12/30 19:54 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/549881246575112193
– 元のツイート)→ 投稿者:uwaaaa(サイ太) 日時:2014/12/30 17:11 ツイート: https://twitter.com/uwaaaa/status/549840099697909760

– リツイートしたアカウント):hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社物語) 日時:2015/01/01 22:14 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/550641236655087616
– 元のツイート)→ 投稿者:uwaaaa(サイ太) 日時:2015/01/01 18:04 ツイート: https://twitter.com/uwaaaa/status/550578290432278528

– リツイートしたアカウント):hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社物語) 日時:2015/01/01 22:14 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/550641332763373568
– 元のツイート)→ 投稿者:uwaaaa(サイ太) 日時:2015/01/01 15:54 ツイート: https://twitter.com/uwaaaa/status/550545682327552001

勘違いの訂正がありますが、12月31日ではなく1月1日でした。それと30日以外を1件取り上げるつもりでしたが、2件にしました。そういえば弁護士ドットコムで記事として取り上げられていたように思いますし、それはそれでご紹介しておきたい事実です。

今回、コミケという言葉を確認するまで私は頭の中でなぜか「コミュケ」と勘違いをしていて、コミュニケーションとも関係のある用語で、よくは知りませんが同人誌という言葉をイメージしていました。

今回初めてコミックマーケットの略だと知ったのですが、そうだと思っていた以上にアニメとの関連性は強そうです。

刑裁サイ太の国選弁護に関するブログの記事もある種の社会風刺なのかと考えることがありました。もっとも今考え直しても「大嘘判連八百選」に関するイラスト等は全く見かけておらず、判例というのは通常文字情報のみなので、やはり漫画を意味するコミックとは別物というイメージがあります。

コミックという言葉の定義について調べたことはないですが、昭和の時代にも見かけて知っていた用語であり、アメリカの漫画というイメージとより強く結びついていたように思います。

今もあるのかどうかしりませんが、平成4年の4月1日まで長距離トラックに乗っていた頃には、「ビックコミック」や「ビックコミックスピリッツ」という週刊誌のような漫画がありました。私はそのような週刊誌のようなスタイルの漫画のみ買ったり読んだりしていました。

少年ジャンプや少年マガジンという昔からある漫画は、ジャンプで「北斗の拳」の連載が始まってしばらくしてから、なぜか全く読むことがなくなりました。「北斗の拳」の漫画は周りで話題にもなっていたと思いますが、漫画が話題になったのもあれが最後かと思います。

ネットで調べたところ簡単にはっきりした情報を見つけることが出来なかったのですが、週刊少年ジャンプで連載が始まったのは1983年という情報がありました。昭和58年ということになりそうです。その年の何時頃から始まったのかも個人的には気になるところですが、深入りはしません。

昭和58年といえば前半は被告訴人OKNが東京に行っていた時期で、7月の20日頃には私が普通免許を取得し、すぐに代車のポンコツの車で、東京の被告訴人OKNのところに遊びに行き、オープンしてまだまもない東京ディズニーランドにも行きました。

その昭和58年の8月の終わりか9月の初めには、金沢市観音堂の被告訴人YSNのアパートに転がり込み11月の10日頃まで居候をしていました。被告訴人YSNが消火器販売を始めたことなど、「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には細かく書いていると思います。

被告訴人OKNが東京に働きに行ったのは、その昭和58年の2月頃だったように思いますが、戻ってきた時期というのが思い出せません。お盆休みには東京から帰省で戻ってきていたことは部分的に記憶に残っています。

夏に小浦の漁港の前で走行中の車を止め、車から降りてきた被告訴人OKNに舘ひろしのアルバムと思われるカセットテープをもらった場面が、古い映画のワンシーンのように記憶に残っています。

そのカセットテープのなかの曲で特に印象に残ったのが「ワンモア・チャンス」という曲だったので調べていたのですが、YouTubeでも動画は見つからず、わかったのは1981年のシングル曲らしいという情報ぐらいでした。

「ワン・モア・チャンス」か「ワンス・モア・チャンス」かと思って調べ始めたのですが、「ワンモア・チャンス」が曲名のようでした。他に彼にカセットテープをもらった記憶もないので、余計に珍しく記憶に残っているのですが、曲について話をしたという記憶もありません。

1981年の曲だとすると昭和56年のことですが、彼にカセットテープをもらうまで全く知らない聴いたことのない曲でした。当時、舘ひろしと言えばクールスというグループのボーカルというイメージが強かったのですが、独立後の曲も「朝まで踊ろう」などは仲間内でもよく聴かれていました。

調べるのにけっこう手間取ったのですが矢沢永吉の「YAZAWA It’s Just Rock’n Roll」というアルバム名だったようです。次のページでようやく確認が出来ましたが、1982年12月4日の発売になっていました。

– DISCOGRAPHY ALBUM 1980-1989|矢沢永吉公式サイト|YAZAWA’S DOOR http://www.eikichiyazawa.com/disco/album/alb_1980.html

1982年というのは昭和57年のことだと思います。その年の12月31日だったと思いますが、私は名古屋市港区でバイク屋の仕事をしていましたが、実家に帰るなという主人のいいつけに背き、ぎりぎりまで迷った挙句、名古屋駅から汽車に乗って宇出津に戻りました。

名古屋駅からは岐阜県の高山市を経由する汽車に乗ったことを憶えているのですが、夜の暗い時間だったこともあり車窓からの景色なども全く記憶には残っていません。

そのあと記憶に残っている場面は宇出津の被告訴人OKNの家の部屋です。名古屋に戻ることはなく二月ほどの間、毎日のように被告訴人OKNと彼の車で遊びまわっていたのですが、その時のよく彼の車で聞いていたのが先ほどの矢沢永吉のアルバムでした。

すでに多くの同級生が普通免許を取得したところで、高校に行っていた同級生は卒業を目前に控えた時期で、開放的な雰囲気でもありました。私は昭和57年の6月に自動二輪で免許取り消しの処分を受けていたので1年間免許を受けることが出来なくなっていたのです。

割と唐突な話で詳しい事情も聞いていなかったように思うのですが、被告訴人OKNは東京に働きに出ることになりました。喫茶店の仕事だと聞いていましたし、一度遊びに行った部屋もその店の二階だったように思います。浅草とも聞いていたように思います。

「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では書いていると思いますが、O兄弟の兄弟分という姫出身のOという人物の世話による東京での生活だったようです。

これも「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」で書いていると思いますが、O兄弟の家の仕事の慰安会のようなものに同行して東京に一泊の旅行に行った時、マンションで入浴などさせてもらったのがOという人物でした。

今、書きながら気がついたことですが、その東京にワゴン車1台で行った旅行も昭和57年のことで、春先という印象が割と強く残っています。当時も穴水から能登有料道路に乗っていましたが、初めの料金所の横田料金所のあたりには、まだ残雪があったこともなんとなく記憶に残っています。

東京に行ったのはO兄弟の二人の他、当時O兄弟の家でプロパン配達の仕事をしていた私より二つ年上のDさんとAさん。同じく自動車修理工場で仕事を始めたばかりだった神野のKもいたように思います。それと事務員だったYというおばさんもいたように思います。

そのYというおばさんは、宇出津の田町に家があると聞いていました。今考えると実際は立町という町内だったと思われるのですが、だいたいその辺りを指して地元の者の間では、「たまち」と呼んでいました。

現在のバス停で見ると私の間隔で仙人町のあたりに田町というバス停があるようですが、そことは場所もいくらか離れています。

二少年の殺人事件で逮捕されたO兄弟の父親は、その田町で潜伏していたところを逮捕されたと聞きました。はっきりと元事務員だったおばさんの家だとも聴いたように思いますが、どちらも誰から聞いたのか今ははっきり思い出せません。被告訴人OKNから聞いた可能性もあります。

地図にあるような町内名ではないのではっきり確認するのも難しいのですが、田町という町名は存在せず、立町と横町という町内のことを合わせて田町と呼んでいたのかもしれません。山の方にあがったあたりには上田町という町内があります。「かみたまち」です。

上田町のあたりは能都中学校にのぼる坂の入り口であり、崎山台地の入り口でもあるかと思います。近年になって能都中学校の校舎は昔、宇出津高校があった場所に新校舎として移転していますが、以前は四明ケ丘にありました。

崎山台地は上田町にも辺田の浜にも被告訴人KYNの家のある酒垂の方にも接しています。車で被告訴人KYNの家に遊びに行く時も崎山に車を駐車することがほとんどでした。崎山は3つか4つの町内にわかれていると思いますが、私はどこがどの町内なのかもしりません。

前にも書いていると思いますが崎山は宇出津ではなく能登町崎山という住所になっているかと思いますが、事実上宇出津の町内の一部であり、あばれ祭りにも参加しています。宇出津新港の町内は辺田の浜に隣接していますが、宇出津の祭りにも辺田の浜の祭りにも参加していないと聞きます。

崎山にこだわるのは一つわけがあります。被告訴人OKNと結婚したOMちゃんの家があるからです。OMちゃんの家は昔、田町の方にあったともかすかに聞いた覚えがあるのですが、崎山台地が住宅地として切り開かれたのは昭和50年台に入った頃だと思います。

造成は昭和40年代の後半から始まっていたとも思いますが、家が建つようになるまでは数年間の間があったようにも思います。幼い頃の記憶としてかすかに残っていますが、畑と墓場しかないような近場の山でした。古い火葬場も残っていました。

時刻は13時53分です。しばらく手をとめてNHKで昔の水戸黄門の八兵衛役だった俳優をみていました。スタジオパークからこんにちは、という番組かと思います。マッサンに出ていた俳優ということは知っていたのですが、あの八兵衛役だったということを知り、驚きました。

NHKの番組が終わったところで、ブラウザで開きっぱなしにしているブロックされている弁護士アカウントのツイートを少し見始めたのですが、また深澤諭史弁護士がどうかと思うツイートをしていたので、割り込みのようになりますが、掲載としてご紹介しておきます。

– 投稿者:fukazawas(深澤諭史) 日時:2015/03/19 09:45 ツイート: https://twitter.com/fukazawas/status/578356636604977152

深澤諭史弁護士は若手の方の中堅弁護士というイメージですが、あらためて年齢を確認しておきたいと思いました。よくあるのは何期という法曹になった時期ですが、私はこれについて未だに理解が出来ておらず、イメージも出来ません。

いじめられていたブタの少年というストーリーの一面もあるのでダム・キーパーと少年問題は個人的に結びつきも強いのですが、弁護士業界の崩壊へのターニングポイントとになったのは光市母子殺害事件の刑事弁護だったと、私は考えています。

思い立ってすぐに調べたところ、次のページが深澤諭史弁護士の情報として見つかりましたが、出身大学が明治大学などと書いてあるものの、なぜか年度の記載がありません。非弁のなんとか委員になった時期などは平成23年4月以降と、わざわざご丁寧に書いてあります。

– 服部啓法律事務所 :: 所属弁護士について http://bit.ly/1O82mpB

次のページで弁護士登録の年を知ることができましたが、2010年ということで、これまで思っていたよりはずいぶんと経験も浅そうな弁護士です。経験の長さで弁護士の評価をするつもりはまるでありませんが、それにしては経験も実績もありそうに見える弁護士でした。

– 深澤 諭史弁護士服部啓法律事務所 – 弁護士ドットコム http://www.bengo4.com/tokyo/a_13113/l_137982/

時刻は3月20日9時57分になっています。中断がありました。告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(@kk_hirono)で確認すると昨日の14時12分が最終の投稿になっていました。思っていたより早い時間、その日の最終便となっていたようです。

夕方に小倉秀夫弁護士のツイートを見て、新たな項目でテーマとして取り上げようか迷ったのですが、夜には他にも重要視するツイートがジャーナリスト江川紹子さんとモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)にもありました。

さきほど小倉秀夫弁護士のツイッターをみたところ、昨日の夕方のツイートにもいくらか関連して、より具体的で社会的問題性も強いと考えるツイートをいくつか散見したので、別途記録の必要性を感じ、次のツイートをメンションとして送りました。

– 投稿者:hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社物語) 日時:2015/03/20 09:46 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/578719111078793218

小倉秀夫弁護士からの回答を待って、今後の本書の記述の方向も考えたいと思います。

昨日の夕方にみた小倉秀夫弁護士のツイートの中で、三重県で起こった少年事件の求刑のことを知ったのですが、テレビでも全く情報を見ていなかったので、録画していた番組をみながら、報道ステーションとニュースZEROを録画していました。

報道ステーションの方は目を通したので録画を消去しましたが、ニュースZEROの方はまだ全くみていません。録画を再生で見ていたのは先週金曜日の「赤と黒のゲキジョー 号泣法廷」というような番組でした。

小倉秀夫弁護士からの回答がまだないので、補充のツイートをもうひとつ送っておきました。次のツイートです。

– 投稿者:hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社物語) 日時:2015/03/20 10:15 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/578726609751912448

小倉秀夫弁護士から返信のようなツイートがありました。ツイートに対する返信ではないので、ツイッターの仕様に則った返信ではないですが。@のメンションがついています。次のツイートです。

– 投稿者:Hideo_Ogura(小倉秀夫) 日時:2015/03/20 10:26 ツイート: https://twitter.com/Hideo_Ogura/status/578729396363743232

時刻は3月22日20時40分です。いろいろとしっかり検討する必要も感じられたので、しばらく中断をしていました。

今日は午前中にEmacsの最新バージョンのことを知り、それをコンパイルでインストールしていろいろとやっていたのですが、トラブルも色々とあって時間を費やしてしまいました。新バージョンでの内部ブラウザを使うのが目的でした。少しでも作業効率をアップさせるためです。

その作業に取り掛かる前であったと思いますが、名誉毀損での刑事告訴を予定しているモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)が、ニュース記事を次のようにツイートで紹介していました。

– 投稿者:motoken_tw(モトケン) 日時:2015/03/22 08:46 ツイート: https://twitter.com/motoken_tw/status/579428818215043072

そのネットのニュース記事から次に一部を引用します。

> 同署によると、午後9時半ごろ、タクシーの運転手から「降りた客が道に座り込んで動かない」と110番があり、署員が酒に酔った状態の容疑者を発見。身元確認のためにリュックサックを開け、さやに入ったナイフを見つけた。

リュックサックについてはずっと前から書いておきたかったことがあるのですが、この項目のテーマになっているダム・キーパーの主人公のブタの少年も、必ずと言っていいぐらいかと思いますが、リュックサックを背負っています。

リュックサックを見ると私は決まって思い出すことがあります。それは昭和61年に生まれた長男がリュックサックを背負って飛び上がるような勢いで嬉しそうにする一枚の写真のことです。推定になりますが2,3歳の頃かと思います。

昭和63年1月の次男も生まれていたかも知れないですが、まだ歩けるような成長ではなかったはずです。その写真は妻の父親が遊びに連れて行った場所での撮影で、妻からは動物園だと聞いたように記憶しています。

どこの動物園なのかも確認はしておらず、手元の写真の数も少なったかったので、動物と一緒に写るような写真はなかったと思います。

妻の実家は石川県でも福井県との県境に近い加賀市だったので、福井県でも石川県に近いところにある芝政というテーマパークなのかと考えていました。動物園があるのかどうかも知らないですが、最近は見かけないものの以前はよくテレビCMにも出ていました。

最近のことはしらないのですが、石川県でそれに近いような場所といえば「手取フィッシュランド」ぐらいでした。ちょっとした遊園地になっていましたが、ペットショップもメインだったので、人の解釈によっては動物園と言うこともあるのかも知れません。

動物園があったのは金沢市の卯辰山で当時は「サニーランド」と呼ばれていたと思います。これは本格的な動物園でしたが、私が小学生の子供の頃、昭和40年代の後半から昭和50年代の前半には「金沢ヘルスセンター」と呼ばれていました。

その石川県で唯一の動物園は現在、辰口町の「いしかわ動物園」に移っておりますし、私が被告訴人KYNのところで配管設備の仕事をしていたときの現場の一つでもありました。当時は石川権能美郡だったと思いますが、現在は能美市になっているのではと思います。

時刻は21時30分です。5分ほど前になりますかテレビをつけました。前に見ていたチャンネルの続きでNHKでした。未解決事件の特集をやっているようです。テレビをつけた時は世田谷の一家殺人事件を取り上げていましたが、そのあとは「宙の会」を取り上げています。

「宙の会」が犯罪被害者の団体であることはよく知っていますが、そういえば最近はネットでもさっぱり名称を見かけなくなって久しいと思いました。理不尽な目にあった未解決事件の被害者家族が増えていないということであれば、それはそれで幸いなことかも知れません。

NHKのテレビをみながら心が動いたので、小倉秀夫弁護士に次の@付きツイートを投稿しました。

– 投稿者:hirono_hideki(廣野秀樹\さらば弁護士鉄道・泥棒神社物語) 日時:2015/03/22 21:58 ツイート: https://twitter.com/hirono_hideki/status/579628093276467200

投稿してから確認したのですが、近接した時間で小倉秀夫弁護士が次のツイートをしていました。最新からは2番めになっていました。

– 投稿者:Hideo_Ogura(小倉秀夫) 日時:2015/03/22 21:22 ツイート: https://twitter.com/Hideo_Ogura/status/579619199573610496

時刻は3月24日9時2分となっています。中断していましたが今回の中断は、自分でもよくわからないことが多いいわば気まぐれな中断ではなく、様子見と検討のための中断でした。ようやく新たな方向性が自分なりに見えてきたということで、記述を再開します。

この項目のメインの筋として、「金沢ヘルスセンター」について書き始めたところでしが、そのまま書き進めることも考えたのですが、後回すにすることにしたいと思います。平成4年の事件に至る私の心象風景としても重要な意味を持つ事実であり、弁護士鉄道の夜というテーマにもつながる一幕です。

ダム・キーパーについてももっと書きたかったのですが、またの機会にしたいと思います。お気に入りの短編アニメ映画ですが、ストーリーやテーマ、アニメとしてのクオリティの高さだけでなく、音楽もとても素敵だと思っていますが、まだ音楽に対する評価は見たことがありません。不思議にも。

<2015-03-24 火 09:27> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

[2015-03-18 09:41] >>> /kk2014/kk_hirono/ブログ(wordpress)/date/index.md