刑事弁護について
橋下弁護士が、ブログ(橋下徹のLawyer’s EYE)で意見を述べています。
で、私の意見はどうかということですが、オードリーさんに過去ログを読んでくださいと言った手前、私自身で少し自分の書いたエントリを読み直してみました。
こういう意見を書いています。
裁判員制度と安田弁護士的弁護
読み比べていただくと分かりますが、一見、よく似た意見です。
ほとんど同じに見えるところもあると思います。
しかし、私は橋下弁護士の主張する理由に基づいて、弁護団を懲戒すべし、という意見には賛成できません。
刑事弁護には、絶対にゆるがせにしてはいけないことが一つあります。
それは、被疑者・被告人の利益を守る、ということです。
その一点において例外は認められません。
つまり、どんな被告人であってもその利益を守らなければいけない、ということです。
具体的に言いますと、弁護人はたとえ依頼者である被告人が黒だと確信したとしても、被告人が「自分は無実だ」と主張する以上は、弁護人の立場にとどまる限り、有罪の弁論をすることは許されないのです。
無罪を主張する被告人の弁護人が、被告人の有罪を確信した場合にその弁護人はどうするべきか、という問題は、司法研修所の刑事弁護教育における重要かつ困難な問題で、これが正しいという答がありません。
こうするべしという答はありませんが、被告人は有罪であるという弁論をしてはいけないことについては異論を見ないはずです。たぶん、橋下弁護士もこの結論は認めるでしょう。
辞任というのも一つの考え方であり選択肢でありますが、辞任した場合は別の弁護士がその被告人の弁護人に就任しなければなりません。
結局、誰かが被告人の無罪の弁論をしなければならないことになります。
橋下弁護士の主張の当否は、以上を前提にして考える必要があります。
橋下弁護士は、
私の主張の骨子は、弁護士法上の懲戒事由である「弁護士会の信用を害する行為、品位を失う行為」の基準は、世間の基準だということです。
と主張しています。
この主張を、橋下弁護士のいう説明責任という観点から本件に即して言いますと
被告人の主張が変遷(内容が変わることです)した場合には、弁護人はその変遷の理由について、世間が納得できるように説明すべきである。
ということになると思います。
しかし、そんなことはいつもいつもできるわけではないのです。
話をさせるたびに話の内容がころころ変わる被告人がいます。
言い訳の矛盾を指摘されるたびに新たな言い訳をその場の思いつきで口にして、最後には支離滅裂の言い訳をする被告人もいます。
そんな被告人の場合は、世間が納得する理由など説明できるはずがありません。
納得できない理由ならいくらでも考えることができるかも知れませんが。
被告人の有罪を確信し、被告人の弁解がおよそ裁判官に採用されないことを分かりながら、被告人の主張を代弁している弁護人はそれこそごまんといるのです。
世間が理解すべきは、弁護人の仕事とはそういうものである、ということです。
このような弁護人の職責がいかに重要であるかは、この拙文をお読みの皆さんが無実の罪で逮捕・起訴され、マスコミはもちろん家族もあなたの有罪を信じてしまった場合のことを考えていただけると少しはおわかりになるのではないでしょうか。
自分はそんなことになるはずがない、とお考えの人も多いと思いますが、これまで冤罪に苦しんだ人たちは、逮捕される前は例外なくそう思っていたはずです。
補足しますと、弁護人が依頼者を有罪であると確信する根拠としては、検察官が収集した証拠に基づくわけですが、いかに強固に見える証拠であったとしてもそれは所詮警察・検察が収集した証拠であるわけですから、弁護人としてはそれらの証拠を無条件に信頼するわけにはいかないのです。
言い換えれば、弁護人は、被告人が有罪であるという自己の確信の根拠を常に疑わなければいけないのです。
そして、この弁護人としてのスタンスについては、例外を認めないことによってのみ冤罪防止の機能が働きます。
私が思いますに、橋下弁護士は、本当に悩ましい事件の刑事弁護をしたことがないのではないでしょうか。
たぶん、国選弁護事件は弁護士になりたてのころに問題のない自白事件を少しやっただけなのではないかと思えてしまいます。
刑事弁護人の苦悩を知らずに批判しているように思えます。
追記
こちら(「被告人を守るということ」と「被告人の自己責任」)もどうぞ。
モトケン (2007年9月 7日 22:22) | コメント(67) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:刑事弁護について – 元検弁護士のつぶやき
刑事弁護について
橋下弁護士が、ブログ(橋下徹のLawyer’s EYE)で意見を述べています。
で、私の意見はどうかということですが、オードリーさんに過去ログを読んでくださいと言った手前、私自身で少し自分の書いたエントリを読み直してみました。
こういう意見を書いています。
裁判員制度と安田弁護士的弁護
読み比べていただくと分かりますが、一見、よく似た意見です。
ほとんど同じに見えるところもあると思います。
しかし、私は橋下弁護士の主張する理由に基づいて、弁護団を懲戒すべし、という意見には賛成できません。
刑事弁護には、絶対にゆるがせにしてはいけないことが一つあります。
それは、被疑者・被告人の利益を守る、ということです。
その一点において例外は認められません。
つまり、どんな被告人であってもその利益を守らなければいけない、ということです。
具体的に言いますと、弁護人はたとえ依頼者である被告人が黒だと確信したとしても、被告人が「自分は無実だ」と主張する以上は、弁護人の立場にとどまる限り、有罪の弁論をすることは許されないのです。
無罪を主張する被告人の弁護人が、被告人の有罪を確信した場合にその弁護人はどうするべきか、という問題は、司法研修所の刑事弁護教育における重要かつ困難な問題で、これが正しいという答がありません。
こうするべしという答はありませんが、被告人は有罪であるという弁論をしてはいけないことについては異論を見ないはずです。たぶん、橋下弁護士もこの結論は認めるでしょう。
辞任というのも一つの考え方であり選択肢でありますが、辞任した場合は別の弁護士がその被告人の弁護人に就任しなければなりません。
結局、誰かが被告人の無罪の弁論をしなければならないことになります。
橋下弁護士の主張の当否は、以上を前提にして考える必要があります。
橋下弁護士は、
私の主張の骨子は、弁護士法上の懲戒事由である「弁護士会の信用を害する行為、品位を失う行為」の基準は、世間の基準だということです。
と主張しています。
この主張を、橋下弁護士のいう説明責任という観点から本件に即して言いますと
被告人の主張が変遷(内容が変わることです)した場合には、弁護人はその変遷の理由について、世間が納得できるように説明すべきである。
ということになると思います。
しかし、そんなことはいつもいつもできるわけではないのです。
話をさせるたびに話の内容がころころ変わる被告人がいます。
言い訳の矛盾を指摘されるたびに新たな言い訳をその場の思いつきで口にして、最後には支離滅裂の言い訳をする被告人もいます。
そんな被告人の場合は、世間が納得する理由など説明できるはずがありません。
納得できない理由ならいくらでも考えることができるかも知れませんが。
被告人の有罪を確信し、被告人の弁解がおよそ裁判官に採用されないことを分かりながら、被告人の主張を代弁している弁護人はそれこそごまんといるのです。
世間が理解すべきは、弁護人の仕事とはそういうものである、ということです。
このような弁護人の職責がいかに重要であるかは、この拙文をお読みの皆さんが無実の罪で逮捕・起訴され、マスコミはもちろん家族もあなたの有罪を信じてしまった場合のことを考えていただけると少しはおわかりになるのではないでしょうか。
自分はそんなことになるはずがない、とお考えの人も多いと思いますが、これまで冤罪に苦しんだ人たちは、逮捕される前は例外なくそう思っていたはずです。
補足しますと、弁護人が依頼者を有罪であると確信する根拠としては、検察官が収集した証拠に基づくわけですが、いかに強固に見える証拠であったとしてもそれは所詮警察・検察が収集した証拠であるわけですから、弁護人としてはそれらの証拠を無条件に信頼するわけにはいかないのです。
言い換えれば、弁護人は、被告人が有罪であるという自己の確信の根拠を常に疑わなければいけないのです。
そして、この弁護人としてのスタンスについては、例外を認めないことによってのみ冤罪防止の機能が働きます。
私が思いますに、橋下弁護士は、本当に悩ましい事件の刑事弁護をしたことがないのではないでしょうか。
たぶん、国選弁護事件は弁護士になりたてのころに問題のない自白事件を少しやっただけなのではないかと思えてしまいます。
刑事弁護人の苦悩を知らずに批判しているように思えます。
追記
こちら(「被告人を守るということ」と「被告人の自己責任」)もどうぞ。
モトケン (2007年9月 7日 22:22) | コメント(67) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:刑事弁護について – 元検弁護士のつぶやき
刑事弁護について
橋下弁護士が、ブログ(橋下徹のLawyer’s EYE)で意見を述べています。
で、私の意見はどうかということですが、オードリーさんに過去ログを読んでくださいと言った手前、私自身で少し自分の書いたエントリを読み直してみました。
こういう意見を書いています。
裁判員制度と安田弁護士的弁護
読み比べていただくと分かりますが、一見、よく似た意見です。
ほとんど同じに見えるところもあると思います。
しかし、私は橋下弁護士の主張する理由に基づいて、弁護団を懲戒すべし、という意見には賛成できません。
刑事弁護には、絶対にゆるがせにしてはいけないことが一つあります。
それは、被疑者・被告人の利益を守る、ということです。
その一点において例外は認められません。
つまり、どんな被告人であってもその利益を守らなければいけない、ということです。
具体的に言いますと、弁護人はたとえ依頼者である被告人が黒だと確信したとしても、被告人が「自分は無実だ」と主張する以上は、弁護人の立場にとどまる限り、有罪の弁論をすることは許されないのです。
無罪を主張する被告人の弁護人が、被告人の有罪を確信した場合にその弁護人はどうするべきか、という問題は、司法研修所の刑事弁護教育における重要かつ困難な問題で、これが正しいという答がありません。
こうするべしという答はありませんが、被告人は有罪であるという弁論をしてはいけないことについては異論を見ないはずです。たぶん、橋下弁護士もこの結論は認めるでしょう。
辞任というのも一つの考え方であり選択肢でありますが、辞任した場合は別の弁護士がその被告人の弁護人に就任しなければなりません。
結局、誰かが被告人の無罪の弁論をしなければならないことになります。
橋下弁護士の主張の当否は、以上を前提にして考える必要があります。
橋下弁護士は、
私の主張の骨子は、弁護士法上の懲戒事由である「弁護士会の信用を害する行為、品位を失う行為」の基準は、世間の基準だということです。
と主張しています。
この主張を、橋下弁護士のいう説明責任という観点から本件に即して言いますと
被告人の主張が変遷(内容が変わることです)した場合には、弁護人はその変遷の理由について、世間が納得できるように説明すべきである。
ということになると思います。
しかし、そんなことはいつもいつもできるわけではないのです。
話をさせるたびに話の内容がころころ変わる被告人がいます。
言い訳の矛盾を指摘されるたびに新たな言い訳をその場の思いつきで口にして、最後には支離滅裂の言い訳をする被告人もいます。
そんな被告人の場合は、世間が納得する理由など説明できるはずがありません。
納得できない理由ならいくらでも考えることができるかも知れませんが。
被告人の有罪を確信し、被告人の弁解がおよそ裁判官に採用されないことを分かりながら、被告人の主張を代弁している弁護人はそれこそごまんといるのです。
世間が理解すべきは、弁護人の仕事とはそういうものである、ということです。
このような弁護人の職責がいかに重要であるかは、この拙文をお読みの皆さんが無実の罪で逮捕・起訴され、マスコミはもちろん家族もあなたの有罪を信じてしまった場合のことを考えていただけると少しはおわかりになるのではないでしょうか。
自分はそんなことになるはずがない、とお考えの人も多いと思いますが、これまで冤罪に苦しんだ人たちは、逮捕される前は例外なくそう思っていたはずです。
補足しますと、弁護人が依頼者を有罪であると確信する根拠としては、検察官が収集した証拠に基づくわけですが、いかに強固に見える証拠であったとしてもそれは所詮警察・検察が収集した証拠であるわけですから、弁護人としてはそれらの証拠を無条件に信頼するわけにはいかないのです。
言い換えれば、弁護人は、被告人が有罪であるという自己の確信の根拠を常に疑わなければいけないのです。
そして、この弁護人としてのスタンスについては、例外を認めないことによってのみ冤罪防止の機能が働きます。
私が思いますに、橋下弁護士は、本当に悩ましい事件の刑事弁護をしたことがないのではないでしょうか。
たぶん、国選弁護事件は弁護士になりたてのころに問題のない自白事件を少しやっただけなのではないかと思えてしまいます。
刑事弁護人の苦悩を知らずに批判しているように思えます。
追記
こちら(「被告人を守るということ」と「被告人の自己責任」)もどうぞ。
モトケン (2007年9月 7日 22:22) | コメント(67) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:刑事弁護について – 元検弁護士のつぶやき
刑事弁護について
橋下弁護士が、ブログ(橋下徹のLawyer’s EYE)で意見を述べています。
で、私の意見はどうかということですが、オードリーさんに過去ログを読んでくださいと言った手前、私自身で少し自分の書いたエントリを読み直してみました。
こういう意見を書いています。
裁判員制度と安田弁護士的弁護
読み比べていただくと分かりますが、一見、よく似た意見です。
ほとんど同じに見えるところもあると思います。
しかし、私は橋下弁護士の主張する理由に基づいて、弁護団を懲戒すべし、という意見には賛成できません。
刑事弁護には、絶対にゆるがせにしてはいけないことが一つあります。
それは、被疑者・被告人の利益を守る、ということです。
その一点において例外は認められません。
つまり、どんな被告人であってもその利益を守らなければいけない、ということです。
具体的に言いますと、弁護人はたとえ依頼者である被告人が黒だと確信したとしても、被告人が「自分は無実だ」と主張する以上は、弁護人の立場にとどまる限り、有罪の弁論をすることは許されないのです。
無罪を主張する被告人の弁護人が、被告人の有罪を確信した場合にその弁護人はどうするべきか、という問題は、司法研修所の刑事弁護教育における重要かつ困難な問題で、これが正しいという答がありません。
こうするべしという答はありませんが、被告人は有罪であるという弁論をしてはいけないことについては異論を見ないはずです。たぶん、橋下弁護士もこの結論は認めるでしょう。
辞任というのも一つの考え方であり選択肢でありますが、辞任した場合は別の弁護士がその被告人の弁護人に就任しなければなりません。
結局、誰かが被告人の無罪の弁論をしなければならないことになります。
橋下弁護士の主張の当否は、以上を前提にして考える必要があります。
橋下弁護士は、
私の主張の骨子は、弁護士法上の懲戒事由である「弁護士会の信用を害する行為、品位を失う行為」の基準は、世間の基準だということです。
と主張しています。
この主張を、橋下弁護士のいう説明責任という観点から本件に即して言いますと
被告人の主張が変遷(内容が変わることです)した場合には、弁護人はその変遷の理由について、世間が納得できるように説明すべきである。
ということになると思います。
しかし、そんなことはいつもいつもできるわけではないのです。
話をさせるたびに話の内容がころころ変わる被告人がいます。
言い訳の矛盾を指摘されるたびに新たな言い訳をその場の思いつきで口にして、最後には支離滅裂の言い訳をする被告人もいます。
そんな被告人の場合は、世間が納得する理由など説明できるはずがありません。
納得できない理由ならいくらでも考えることができるかも知れませんが。
被告人の有罪を確信し、被告人の弁解がおよそ裁判官に採用されないことを分かりながら、被告人の主張を代弁している弁護人はそれこそごまんといるのです。
世間が理解すべきは、弁護人の仕事とはそういうものである、ということです。
このような弁護人の職責がいかに重要であるかは、この拙文をお読みの皆さんが無実の罪で逮捕・起訴され、マスコミはもちろん家族もあなたの有罪を信じてしまった場合のことを考えていただけると少しはおわかりになるのではないでしょうか。
自分はそんなことになるはずがない、とお考えの人も多いと思いますが、これまで冤罪に苦しんだ人たちは、逮捕される前は例外なくそう思っていたはずです。
補足しますと、弁護人が依頼者を有罪であると確信する根拠としては、検察官が収集した証拠に基づくわけですが、いかに強固に見える証拠であったとしてもそれは所詮警察・検察が収集した証拠であるわけですから、弁護人としてはそれらの証拠を無条件に信頼するわけにはいかないのです。
言い換えれば、弁護人は、被告人が有罪であるという自己の確信の根拠を常に疑わなければいけないのです。
そして、この弁護人としてのスタンスについては、例外を認めないことによってのみ冤罪防止の機能が働きます。
私が思いますに、橋下弁護士は、本当に悩ましい事件の刑事弁護をしたことがないのではないでしょうか。
たぶん、国選弁護事件は弁護士になりたてのころに問題のない自白事件を少しやっただけなのではないかと思えてしまいます。
刑事弁護人の苦悩を知らずに批判しているように思えます。
追記
こちら(「被告人を守るということ」と「被告人の自己責任」)もどうぞ。
モトケン (2007年9月 7日 22:22) | コメント(67) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:刑事弁護について – 元検弁護士のつぶやき
刑事弁護について
橋下弁護士が、ブログ(橋下徹のLawyer’s EYE)で意見を述べています。
で、私の意見はどうかということですが、オードリーさんに過去ログを読んでくださいと言った手前、私自身で少し自分の書いたエントリを読み直してみました。
こういう意見を書いています。
裁判員制度と安田弁護士的弁護
読み比べていただくと分かりますが、一見、よく似た意見です。
ほとんど同じに見えるところもあると思います。
しかし、私は橋下弁護士の主張する理由に基づいて、弁護団を懲戒すべし、という意見には賛成できません。
刑事弁護には、絶対にゆるがせにしてはいけないことが一つあります。
それは、被疑者・被告人の利益を守る、ということです。
その一点において例外は認められません。
つまり、どんな被告人であってもその利益を守らなければいけない、ということです。
具体的に言いますと、弁護人はたとえ依頼者である被告人が黒だと確信したとしても、被告人が「自分は無実だ」と主張する以上は、弁護人の立場にとどまる限り、有罪の弁論をすることは許されないのです。
無罪を主張する被告人の弁護人が、被告人の有罪を確信した場合にその弁護人はどうするべきか、という問題は、司法研修所の刑事弁護教育における重要かつ困難な問題で、これが正しいという答がありません。
こうするべしという答はありませんが、被告人は有罪であるという弁論をしてはいけないことについては異論を見ないはずです。たぶん、橋下弁護士もこの結論は認めるでしょう。
辞任というのも一つの考え方であり選択肢でありますが、辞任した場合は別の弁護士がその被告人の弁護人に就任しなければなりません。
結局、誰かが被告人の無罪の弁論をしなければならないことになります。
橋下弁護士の主張の当否は、以上を前提にして考える必要があります。
橋下弁護士は、
私の主張の骨子は、弁護士法上の懲戒事由である「弁護士会の信用を害する行為、品位を失う行為」の基準は、世間の基準だということです。
と主張しています。
この主張を、橋下弁護士のいう説明責任という観点から本件に即して言いますと
被告人の主張が変遷(内容が変わることです)した場合には、弁護人はその変遷の理由について、世間が納得できるように説明すべきである。
ということになると思います。
しかし、そんなことはいつもいつもできるわけではないのです。
話をさせるたびに話の内容がころころ変わる被告人がいます。
言い訳の矛盾を指摘されるたびに新たな言い訳をその場の思いつきで口にして、最後には支離滅裂の言い訳をする被告人もいます。
そんな被告人の場合は、世間が納得する理由など説明できるはずがありません。
納得できない理由ならいくらでも考えることができるかも知れませんが。
被告人の有罪を確信し、被告人の弁解がおよそ裁判官に採用されないことを分かりながら、被告人の主張を代弁している弁護人はそれこそごまんといるのです。
世間が理解すべきは、弁護人の仕事とはそういうものである、ということです。
このような弁護人の職責がいかに重要であるかは、この拙文をお読みの皆さんが無実の罪で逮捕・起訴され、マスコミはもちろん家族もあなたの有罪を信じてしまった場合のことを考えていただけると少しはおわかりになるのではないでしょうか。
自分はそんなことになるはずがない、とお考えの人も多いと思いますが、これまで冤罪に苦しんだ人たちは、逮捕される前は例外なくそう思っていたはずです。
補足しますと、弁護人が依頼者を有罪であると確信する根拠としては、検察官が収集した証拠に基づくわけですが、いかに強固に見える証拠であったとしてもそれは所詮警察・検察が収集した証拠であるわけですから、弁護人としてはそれらの証拠を無条件に信頼するわけにはいかないのです。
言い換えれば、弁護人は、被告人が有罪であるという自己の確信の根拠を常に疑わなければいけないのです。
そして、この弁護人としてのスタンスについては、例外を認めないことによってのみ冤罪防止の機能が働きます。
私が思いますに、橋下弁護士は、本当に悩ましい事件の刑事弁護をしたことがないのではないでしょうか。
たぶん、国選弁護事件は弁護士になりたてのころに問題のない自白事件を少しやっただけなのではないかと思えてしまいます。
刑事弁護人の苦悩を知らずに批判しているように思えます。
追記
こちら(「被告人を守るということ」と「被告人の自己責任」)もどうぞ。
モトケン (2007年9月 7日 22:22) | コメント(67) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:刑事弁護について – 元検弁護士のつぶやき
刑事弁護について
橋下弁護士が、ブログ(橋下徹のLawyer’s EYE)で意見を述べています。
で、私の意見はどうかということですが、オードリーさんに過去ログを読んでくださいと言った手前、私自身で少し自分の書いたエントリを読み直してみました。
こういう意見を書いています。
裁判員制度と安田弁護士的弁護
読み比べていただくと分かりますが、一見、よく似た意見です。
ほとんど同じに見えるところもあると思います。
しかし、私は橋下弁護士の主張する理由に基づいて、弁護団を懲戒すべし、という意見には賛成できません。
刑事弁護には、絶対にゆるがせにしてはいけないことが一つあります。
それは、被疑者・被告人の利益を守る、ということです。
その一点において例外は認められません。
つまり、どんな被告人であってもその利益を守らなければいけない、ということです。
具体的に言いますと、弁護人はたとえ依頼者である被告人が黒だと確信したとしても、被告人が「自分は無実だ」と主張する以上は、弁護人の立場にとどまる限り、有罪の弁論をすることは許されないのです。
無罪を主張する被告人の弁護人が、被告人の有罪を確信した場合にその弁護人はどうするべきか、という問題は、司法研修所の刑事弁護教育における重要かつ困難な問題で、これが正しいという答がありません。
こうするべしという答はありませんが、被告人は有罪であるという弁論をしてはいけないことについては異論を見ないはずです。たぶん、橋下弁護士もこの結論は認めるでしょう。
辞任というのも一つの考え方であり選択肢でありますが、辞任した場合は別の弁護士がその被告人の弁護人に就任しなければなりません。
結局、誰かが被告人の無罪の弁論をしなければならないことになります。
橋下弁護士の主張の当否は、以上を前提にして考える必要があります。
橋下弁護士は、
私の主張の骨子は、弁護士法上の懲戒事由である「弁護士会の信用を害する行為、品位を失う行為」の基準は、世間の基準だということです。
と主張しています。
この主張を、橋下弁護士のいう説明責任という観点から本件に即して言いますと
被告人の主張が変遷(内容が変わることです)した場合には、弁護人はその変遷の理由について、世間が納得できるように説明すべきである。
ということになると思います。
しかし、そんなことはいつもいつもできるわけではないのです。
話をさせるたびに話の内容がころころ変わる被告人がいます。
言い訳の矛盾を指摘されるたびに新たな言い訳をその場の思いつきで口にして、最後には支離滅裂の言い訳をする被告人もいます。
そんな被告人の場合は、世間が納得する理由など説明できるはずがありません。
納得できない理由ならいくらでも考えることができるかも知れませんが。
被告人の有罪を確信し、被告人の弁解がおよそ裁判官に採用されないことを分かりながら、被告人の主張を代弁している弁護人はそれこそごまんといるのです。
世間が理解すべきは、弁護人の仕事とはそういうものである、ということです。
このような弁護人の職責がいかに重要であるかは、この拙文をお読みの皆さんが無実の罪で逮捕・起訴され、マスコミはもちろん家族もあなたの有罪を信じてしまった場合のことを考えていただけると少しはおわかりになるのではないでしょうか。
自分はそんなことになるはずがない、とお考えの人も多いと思いますが、これまで冤罪に苦しんだ人たちは、逮捕される前は例外なくそう思っていたはずです。
補足しますと、弁護人が依頼者を有罪であると確信する根拠としては、検察官が収集した証拠に基づくわけですが、いかに強固に見える証拠であったとしてもそれは所詮警察・検察が収集した証拠であるわけですから、弁護人としてはそれらの証拠を無条件に信頼するわけにはいかないのです。
言い換えれば、弁護人は、被告人が有罪であるという自己の確信の根拠を常に疑わなければいけないのです。
そして、この弁護人としてのスタンスについては、例外を認めないことによってのみ冤罪防止の機能が働きます。
私が思いますに、橋下弁護士は、本当に悩ましい事件の刑事弁護をしたことがないのではないでしょうか。
たぶん、国選弁護事件は弁護士になりたてのころに問題のない自白事件を少しやっただけなのではないかと思えてしまいます。
刑事弁護人の苦悩を知らずに批判しているように思えます。
追記
こちら(「被告人を守るということ」と「被告人の自己責任」)もどうぞ。
モトケン (2007年9月 7日 22:22) | コメント(67) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:刑事弁護について – 元検弁護士のつぶやき
刑事弁護について
橋下弁護士が、ブログ(橋下徹のLawyer’s EYE)で意見を述べています。
で、私の意見はどうかということですが、オードリーさんに過去ログを読んでくださいと言った手前、私自身で少し自分の書いたエントリを読み直してみました。
こういう意見を書いています。
裁判員制度と安田弁護士的弁護
読み比べていただくと分かりますが、一見、よく似た意見です。
ほとんど同じに見えるところもあると思います。
しかし、私は橋下弁護士の主張する理由に基づいて、弁護団を懲戒すべし、という意見には賛成できません。
刑事弁護には、絶対にゆるがせにしてはいけないことが一つあります。
それは、被疑者・被告人の利益を守る、ということです。
その一点において例外は認められません。
つまり、どんな被告人であってもその利益を守らなければいけない、ということです。
具体的に言いますと、弁護人はたとえ依頼者である被告人が黒だと確信したとしても、被告人が「自分は無実だ」と主張する以上は、弁護人の立場にとどまる限り、有罪の弁論をすることは許されないのです。
無罪を主張する被告人の弁護人が、被告人の有罪を確信した場合にその弁護人はどうするべきか、という問題は、司法研修所の刑事弁護教育における重要かつ困難な問題で、これが正しいという答がありません。
こうするべしという答はありませんが、被告人は有罪であるという弁論をしてはいけないことについては異論を見ないはずです。たぶん、橋下弁護士もこの結論は認めるでしょう。
辞任というのも一つの考え方であり選択肢でありますが、辞任した場合は別の弁護士がその被告人の弁護人に就任しなければなりません。
結局、誰かが被告人の無罪の弁論をしなければならないことになります。
橋下弁護士の主張の当否は、以上を前提にして考える必要があります。
橋下弁護士は、
私の主張の骨子は、弁護士法上の懲戒事由である「弁護士会の信用を害する行為、品位を失う行為」の基準は、世間の基準だということです。
と主張しています。
この主張を、橋下弁護士のいう説明責任という観点から本件に即して言いますと
被告人の主張が変遷(内容が変わることです)した場合には、弁護人はその変遷の理由について、世間が納得できるように説明すべきである。
ということになると思います。
しかし、そんなことはいつもいつもできるわけではないのです。
話をさせるたびに話の内容がころころ変わる被告人がいます。
言い訳の矛盾を指摘されるたびに新たな言い訳をその場の思いつきで口にして、最後には支離滅裂の言い訳をする被告人もいます。
そんな被告人の場合は、世間が納得する理由など説明できるはずがありません。
納得できない理由ならいくらでも考えることができるかも知れませんが。
被告人の有罪を確信し、被告人の弁解がおよそ裁判官に採用されないことを分かりながら、被告人の主張を代弁している弁護人はそれこそごまんといるのです。
世間が理解すべきは、弁護人の仕事とはそういうものである、ということです。
このような弁護人の職責がいかに重要であるかは、この拙文をお読みの皆さんが無実の罪で逮捕・起訴され、マスコミはもちろん家族もあなたの有罪を信じてしまった場合のことを考えていただけると少しはおわかりになるのではないでしょうか。
自分はそんなことになるはずがない、とお考えの人も多いと思いますが、これまで冤罪に苦しんだ人たちは、逮捕される前は例外なくそう思っていたはずです。
補足しますと、弁護人が依頼者を有罪であると確信する根拠としては、検察官が収集した証拠に基づくわけですが、いかに強固に見える証拠であったとしてもそれは所詮警察・検察が収集した証拠であるわけですから、弁護人としてはそれらの証拠を無条件に信頼するわけにはいかないのです。
言い換えれば、弁護人は、被告人が有罪であるという自己の確信の根拠を常に疑わなければいけないのです。
そして、この弁護人としてのスタンスについては、例外を認めないことによってのみ冤罪防止の機能が働きます。
私が思いますに、橋下弁護士は、本当に悩ましい事件の刑事弁護をしたことがないのではないでしょうか。
たぶん、国選弁護事件は弁護士になりたてのころに問題のない自白事件を少しやっただけなのではないかと思えてしまいます。
刑事弁護人の苦悩を知らずに批判しているように思えます。
追記
こちら(「被告人を守るということ」と「被告人の自己責任」)もどうぞ。
モトケン (2007年9月 7日 22:22) | コメント(67) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:刑事弁護について – 元検弁護士のつぶやき
刑事弁護について
橋下弁護士が、ブログ(橋下徹のLawyer’s EYE)で意見を述べています。
で、私の意見はどうかということですが、オードリーさんに過去ログを読んでくださいと言った手前、私自身で少し自分の書いたエントリを読み直してみました。
こういう意見を書いています。
裁判員制度と安田弁護士的弁護
読み比べていただくと分かりますが、一見、よく似た意見です。
ほとんど同じに見えるところもあると思います。
しかし、私は橋下弁護士の主張する理由に基づいて、弁護団を懲戒すべし、という意見には賛成できません。
刑事弁護には、絶対にゆるがせにしてはいけないことが一つあります。
それは、被疑者・被告人の利益を守る、ということです。
その一点において例外は認められません。
つまり、どんな被告人であってもその利益を守らなければいけない、ということです。
具体的に言いますと、弁護人はたとえ依頼者である被告人が黒だと確信したとしても、被告人が「自分は無実だ」と主張する以上は、弁護人の立場にとどまる限り、有罪の弁論をすることは許されないのです。
無罪を主張する被告人の弁護人が、被告人の有罪を確信した場合にその弁護人はどうするべきか、という問題は、司法研修所の刑事弁護教育における重要かつ困難な問題で、これが正しいという答がありません。
こうするべしという答はありませんが、被告人は有罪であるという弁論をしてはいけないことについては異論を見ないはずです。たぶん、橋下弁護士もこの結論は認めるでしょう。
辞任というのも一つの考え方であり選択肢でありますが、辞任した場合は別の弁護士がその被告人の弁護人に就任しなければなりません。
結局、誰かが被告人の無罪の弁論をしなければならないことになります。
橋下弁護士の主張の当否は、以上を前提にして考える必要があります。
橋下弁護士は、
私の主張の骨子は、弁護士法上の懲戒事由である「弁護士会の信用を害する行為、品位を失う行為」の基準は、世間の基準だということです。
と主張しています。
この主張を、橋下弁護士のいう説明責任という観点から本件に即して言いますと
被告人の主張が変遷(内容が変わることです)した場合には、弁護人はその変遷の理由について、世間が納得できるように説明すべきである。
ということになると思います。
しかし、そんなことはいつもいつもできるわけではないのです。
話をさせるたびに話の内容がころころ変わる被告人がいます。
言い訳の矛盾を指摘されるたびに新たな言い訳をその場の思いつきで口にして、最後には支離滅裂の言い訳をする被告人もいます。
そんな被告人の場合は、世間が納得する理由など説明できるはずがありません。
納得できない理由ならいくらでも考えることができるかも知れませんが。
被告人の有罪を確信し、被告人の弁解がおよそ裁判官に採用されないことを分かりながら、被告人の主張を代弁している弁護人はそれこそごまんといるのです。
世間が理解すべきは、弁護人の仕事とはそういうものである、ということです。
このような弁護人の職責がいかに重要であるかは、この拙文をお読みの皆さんが無実の罪で逮捕・起訴され、マスコミはもちろん家族もあなたの有罪を信じてしまった場合のことを考えていただけると少しはおわかりになるのではないでしょうか。
自分はそんなことになるはずがない、とお考えの人も多いと思いますが、これまで冤罪に苦しんだ人たちは、逮捕される前は例外なくそう思っていたはずです。
補足しますと、弁護人が依頼者を有罪であると確信する根拠としては、検察官が収集した証拠に基づくわけですが、いかに強固に見える証拠であったとしてもそれは所詮警察・検察が収集した証拠であるわけですから、弁護人としてはそれらの証拠を無条件に信頼するわけにはいかないのです。
言い換えれば、弁護人は、被告人が有罪であるという自己の確信の根拠を常に疑わなければいけないのです。
そして、この弁護人としてのスタンスについては、例外を認めないことによってのみ冤罪防止の機能が働きます。
私が思いますに、橋下弁護士は、本当に悩ましい事件の刑事弁護をしたことがないのではないでしょうか。
たぶん、国選弁護事件は弁護士になりたてのころに問題のない自白事件を少しやっただけなのではないかと思えてしまいます。
刑事弁護人の苦悩を知らずに批判しているように思えます。
追記
こちら(「被告人を守るということ」と「被告人の自己責任」)もどうぞ。
モトケン (2007年9月 7日 22:22) | コメント(67) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:刑事弁護について – 元検弁護士のつぶやき
「被告人を守るということ」と「被告人の自己責任」
前回のエントリ「刑事弁護について」で私は、「どんな被告人であってもその利益を守らなければいけない」と書きました。
「被告人の利益を守る」ということは、基本的には「被告人により有利な裁判を目指す」ということになります。
有罪よりは無罪を、有罪だとしても重い刑よりは軽い刑を目指すということです。
但し、「被告人に有利な裁判」と「被告人のためになる裁判」というのは常に一致するとは限らないと思っていますが、本エントリではこの問題には触れずに基本的な考え方を前提にして書いていきます。」
ともかく弁護人は被告人に有利な裁判を目指すわけですが、弁護人は被告人の意思や意向を無視して完全に被告人から独立して自分で弁護方針を決定するわけにはいきません。
なぜなら、裁判という手続で多大な時間を奪われ、実刑となれば判決の効力を受けて服役するのは被告人本人であって弁護人ではないからです。
従って、ある被告人の裁判において、裁判に臨む方針(=弁護方針)を最終的に決定するのは被告人であって弁護人ではありません。
弁護人は、いくつかある弁護方針について、その一つを選択した場合の利害得失を予測して説明しまたは助言はしますが、最終決定は被告人が行うべきことです。
弁護人は被告人が決定した弁護方針に基づいて、その実現を目指して弁護技術を駆使することになります。
ところで、弁護方針(裁判方針)というのは、有罪なら認める、無実なら争う、というような二者択一の単純なものではありません。
1.検察官の主張を全面的に認めて、ひたすら反省謝罪し、軽い量刑を求める。
2.犯罪の成立は認めるが、情状関係の事実については争って軽い量刑を求める。
3.犯罪事実の一部を争って一部無罪を目指し、軽い量刑を求める。
4.ほんとは無罪や一部無罪を主張したいんだけど、争うと保釈が認められないので、保釈を最優先して争わない。
5.言いたいことはたくさんあるけど、弁解しないほうが裁判は早く終わるし、執行猶予が期待できるので、なにも弁解しない。
6.全面的に争って完全無罪を目指す。
今思いつく範囲で列挙してみましたが、大雑把に数えても以上のような方針が考えられます。
そして、その中のどれを選ぶかを決めるのは、しつこいですが被告人です。
例外として、弁護人の判断が重要になる場合として、本当に責任能力に問題がある被告人についての心神喪失または心神耗弱の主張をする場合が考えられますが、ここでは原則論について話をすすめます。
上記の弁護方針は、いくつかを複合して選択する場合もあります。
そして、必ずしも裁判の全過程において一貫しているとは限りません。
被告人の思いや考えが変われば、弁護人の弁護方針もそれに応じて変わらざるを得ません。
それに伴い、弁護人が交代することも当然考えられます。
争わなければ軽い量刑が期待できると考えて(そのような弁護人の助言を受けて)、何も反論しなかった被告人が、控訴審までは予想通りであったが最高裁で極刑の可能性が出てきた場合において、それまでの方針を変更してそれまでは言わなかった主張(真実であれ思いつきであれ)を言い出すことは全く不思議でも不合理でもないことです。
そして方針変更に伴って弁護人が変わるということも、自然な成り行きです。
新たに選任された弁護人としては、その時点における被告人の方針に従わざるを得ません。
弁護人としては、仮に被告人の選択が誤っていると考えたとしても、助言をする必要はあると思いますが、助言にかかわらず被告人が方針を変えない場合には被告人の方針に従って弁護するということがその場合における「被告人を守る」ということになります。
そして、被告人が弁護人の助言に従わずに不適切な方針を選択し、その結果として不利な判決を受けたとしても、それは被告人の自己責任であって、弁護人が批判されるいわれはありません。
なお、以上は一般論です。
光市母子殺害事件の被告人と新旧弁護人がどのように考えているかは、推測の域を出ません。
モトケン (2007年9月 8日 09:36) | コメント(13) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:「被告人を守るということ」と「被告人の自己責任」 – 元検弁護士のつぶやき
被害にあってないから弁護ができる(過去ログから)
自分のブログを「事実認定」のキーワードで検索したら、「法律実務家にとって重要な事実認定能力」というエントリが見つかりました。
自分で自分が以前に何を書いたかわからなくなっています(^^;
そのエントリの中で私は
自分または自分の家族が凶悪犯罪の被害者になってしまいますと、私自身、別の事件においても客観的な視点を保つことが困難になるだろうと思うからです。 そしてそれは、法律実務家としての致命的な欠陥になってしまいます。 つまり、自分または自分の家族が凶悪犯罪の被害者になってしまいますと、それを想起するような事件については弁護士としての仕事ができなくなります。 言い換えると、被害に遭っていないから弁護活動ができるのです。
我ながらいいこと書いている、と思います。
なぜかと言いますと、炎上中の今枝ブログのコメントの中に、「あんたの家族が殺された場合のことを考えたことあるのか」とか「家族を殺されても弁護ができるのか」というようなほとんど罵倒があったと思いますが、それに対する答えをこのとき(2006年06月26日)すでに書いているからです。
つまり、「言い換えると、被害に遭っていないから弁護活動ができるのです。」という私の言葉に従いますと、弁護士に向かって「あんたの家族が殺されたら」などという質問を投げかけることがナンセンスだと思えるのです。
モトケン (2007年9月26日 23:58) | コメント(86) このエントリーを含むはてなブックマーク (Top)
引用:被害にあってないから弁護ができる(過去ログから) – 元検弁護士のつぶやき
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