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被告人(医療側)が弁護人に医療の実情というものをきちんと説明し<元検弁護士のつぶやき>


医療側→司法側

 大野病院事件の判決を読んでみると、裁判所は、医療の不確実性や本来的危険性というものをきちんと理解していることが読み取れます。

 このことは、被告人(医療側)が弁護人に医療の実情というものをきちんと説明し、その説明を弁護人(司法側)が理解し、弁護人は自らが理解した医療の不確実性や本来的危険性を裁判官(司法の主体)に向けて説明・説得に努め、それが成功したことを意味します。

 言い方を変えれば、司法側は医療側の主張や説明に耳を傾け、それを理解したと言えるのであり、医療側から司法側に向けたコミュニケーションが成立した事例と見ることができます。

 それに対して、司法側から医療側に対して司法制度を説明してきたこのブログの「司法側→医療側」のコミュニケーションは、絶望的に失敗しているように感じる今日この頃です。
モトケン (2008年9月10日 12:07) | コメント(62) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

引用:医療側→司法側 – 元検弁護士のつぶやき

送信者 元検弁護士のつぶやき-2013

医師の皆さんは誠実さを求められることがお嫌ですか?<元検弁護士のつぶやき>


医師の皆さんは誠実さを求められることがお嫌ですか?

 このエントリは、峰村健司氏のコメント(刑事司法の介入と業界に対する信頼感No.15 以下)を契機とするものです。

  最初にいくつか確認しておきます。

 私のここ最近(大野病院事件判決の前日から)の発言は、いずれも大野病院事件の判決とそれに対する検察の不控訴決定を踏まえてのものです。
 以前の青戸病院事件判決や割り箸事件判決について言及する場合はその旨明示しているはずですし、多くの民事医療過誤事件判決は考慮に入れていません。
 民事と刑事の過失判断理念が違うからです。
 過去の民事のトンデモ判決(と医療側が理解している判決)を前提に大野病院判決を理解しようとすると色眼鏡で見ることになります。

 次に、「誠実」という言葉についてですが、大野病院判決の要旨には「誠実」という言葉はありません。
 つまり、要旨で見る限り、大野病院判決の論理の中には、誠実な医療行為という概念はないでのであり、当然のこととして大野病院判決が医師に対して「誠実な医療」を要求していません。
 判決の論理自体は、誠実とは無関係に無罪を導いています。

 このブログで、「誠実」ということが議論されるようになった原因は、私の「誠実な医療の重要性」にあるのですが、このエントリは、すでに説明したつもりですが、大野病院判決を医療側から見てどう受け止めるべきか、という観点で書いたものです。
 つまり、医師の側において、誠実さを重視することの重要性を指摘したものに過ぎず、司法の論理として「誠実さ」が重視されていることを言いたかったのではありません。
 峰村氏の「私の言うところの「そういう司法」は,その直前に記した『「誠実さ」を重視する判断手法』を行使する司法,の意味であり,モトケンさんが言われるところの「信頼感」によって判断する司法であります。」というコメントは誤解です。
 大野病院判決jの論理(この論理というところが重要です)そのものは、「信頼感」によって判断しているわけではありません。

 なぜ、医師の側からの受け止め方を問題にしたかというと、医師が感じている訴訟リスクが問題だと思っているからです。
 私のこのような視点は、これまでのこのブログにおける2年以上にわたる議論の中での私の発言をお読みになっている方には当然のことと思っていたわけですが、今回の峰村氏のコメントはその意味で、私にとっては最も衝撃的な発言でした。

 繰り返して確認しますが、大野病院判決は、医療行為が誠実なものであったかどうかは判断していませんし、誠実な医療行為を要求しているわけでもありません。
 大野病院判決の論理としては、誠実な医療だったから無罪にしたのではありませんし、不誠実な医療だったら有罪になったとは限りません。
 そもそも、誠実さなどという曖昧な基準で有罪無罪を決することはできません。

 次に「誠実」という言葉の意味ですが、私の理解で、誠実という言葉は、人の能力や技能レベルと無関係の概念であると考えています。
 つまり、「誠実な医療」というのは、「理想的な医療」でも「完璧な医療」でも「最良の医療」でも「最高の医療」でも「最新の医療」でも「最適な医療」でも「人を死亡させない医療」でもありません。
 ヤフー辞書によれば、類語または関連後として「真面目」「正直」「真心」があげられています。
 要するに、与えられた状況に応じて最善を目指す医療と言っていいのではないかと思います。
 具体的な医療行為の内容が、誠実という基準で一義的に決まるものではないということも当然の前提です。

 私は、大野病院事件の論理の前提にある医療というものに対する裁判所の理解として、「誠実な医療」であるならば、それに対する刑事司法の発動(処罰)は謙抑的でなければならないという判断を読み取ったのです。
 私が、そう読み取ったのです。
 つまり、福島地裁の裁判官の医療行為に対する認識と、医療側が理解してほしいと思っている医療の実情との間に大きな乖離はないと、私は理解しました。
 そして、私は、そこに裁判所の加藤医師の誠実さに対する信頼を感じ取ったのです。
 そうなると、今後の医療側の課題としては、福島地裁が加藤医師に抱いた信頼を、他の裁判所と他の医師との間に広げ深めていくことが大事なのではなかろうか、というのが私の「誠実な医療の重要性」であったわけです。
 つまり、「誠実な医療の重要性」で指摘した「誠実な医療」とは、司法の論理としてのそれではなく、医療の論理としての「誠実な医療」であったわけです。

 さて、ここまで書いて、同じようなことを何度も書いたような気がするなと思っておりますが、いくら言葉を重ねても理解できない人には理解できないようです。
 私の文章力の拙さによるところもあるかと思いますが、最初から対立構造で見られたらお手上げだなという気もしています。

 しかし、どの程度の人が理解してくれているのかな、という点はとても関心のある事柄です。
 そこで、本エントリのタイトルです。
 別に、裁判所が誠実さを求めているわけではないことは、ここで述べたとおりです。
 しかし、裁判所が誠実さを求めていると誤解してそれに対する反発を示す医療側の発言も少なくないと思われます。
 そこで、あらためて聞いてみたいと思いました。

 医師の皆さんは誠実さを求められることがお嫌ですか?
モトケン (2008年9月10日 09:31) | コメント(84) | トラックバック(1) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

引用:医師の皆さんは誠実さを求められることがお嫌ですか? – 元検弁護士のつぶやき

送信者 元検弁護士のつぶやき-2013

送信者 元検弁護士のつぶやき-2013

送信者 元検弁護士のつぶやき-2013

私(およびこのブログの常連の法曹のみなさん。以下同じ)は


再び医療側のみなさまへ

 3度目か4度目かも知れませんけどね。
 このブログで医療問題を取り上げているのは明確な意図があってのことです。
 患者または患者予備軍として、将来もちゃんとした医療を受けたいということです。
 そして、そのためにはお医者さんたちにやる気をもって安心して存分に医師としての能力を発揮してもらいたいのです。

 ところが、議論を始めてみると、「医療崩壊」だ「逃散」だという話になっていることが分かってきました。
 ともかく何が問題なのか医療側の皆さんに教えてもらわなければいけないと思って、私(およびこのブログの常連の法曹のみなさん。以下同じ)は、医療側の訴えに耳を傾けてきたつもりです。
 その結果、医療の不確実性等の医療の本質に係わる問題や、不確実性を理解しない司法への不信、それによる深刻な訴訟リスクなども理解できるようになったと思います。
 
 医療崩壊の原因は非常に多様であって、一言ではまとめきれないと思いますが、その中の大きな要素として訴訟リスクというものがあることはわかりました。
 そしてここは元検弁護士のブログです。
 そこで、私は法律家の観点から司法の仕組み、訴訟リスクの実態等の説明を試みました。
 それによって訴訟リスクの範囲と程度を医療側の皆さんにできるだけ理解してほしいと思ったからです。

 これが、私が何度も強調してきました司法側と医療側の相互理解であったわけです。
 しかし、司法が患者側の働きかけで起動するものである(民事では患者側原告による提訴、刑事では患者側による告訴等)ことからしますと、相互理解は、司法側と医療側にとどまるべきものではなく、患者側、患者予備軍たる多くの一般市民と司法および医療との相互理解が最も重要であるはずです。
 一般市民から理解されない医療は、市民側からの故なき批判にさらされることになり、医療側の士気と誇りはスポイルされ続けるでしょう。

 このブログは、司法・医療・市民の相互理解を目指す場でありたいと思っています。

 そういう問題意識を持たずに、自らの不平不満を述べたいだけの人は、あえてこのブログで発言する必要はありませんし、そのような発言は有害ですらあります。
 不平不満だけなら、ほかに吐き出す場所がいくらでもあるでしょう。

 何度言ってもわからないなら、ほんとに切れますよ!!!
 わざわざ有害情報を提供するために医療問題エントリを立てても仕方がありません!

2008年8月27日10:41am付け追記
 昨日、このエントリを非公開としましたが、事情により再公開します。
 なお、上記事情は医療側の皆さんとは関係のない事情です。
モトケン (2008年8月26日 12:03) | コメント(9) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

引用:再び医療側のみなさまへ – 元検弁護士のつぶやき

送信者 元検弁護士のつぶやき-2013

送信者 元検弁護士のつぶやき-2013

弁護士のセンセイ方は「国民の裁判を受ける権利」をどう考えていらっしゃるんでしょうかね<2ch>


5 : 無責任な名無しさん[] : 投稿日:2002/07/26 17:43:00 ID:OOlM8Lee [1/1回]
自分に時間があるときだけしかも30分5000円でぼったくるの?
いやはや、弁護士のセンセイ方は「国民の裁判を受ける権利」
をどう考えていらっしゃるんでしょうかね。
人権侵害だろ。

118 :無責任な名無しさん :02/07/26 13:10 ID:1Enn+uxv
この2ちゃんみてると、医療事故にあった場合の事がよく書いてあり、
しかもそこにはいとも簡単に、すぐ弁護しに相談しろなんて
めちゃくちゃ簡単に書いてあるけど、

実際まともに医療事故の対応できる弁護士なんて、
いまの日本には、まずいない。

よく、医療事故センターとか、医療弁護団とか、パソコンや本などで、
信じられないほど頻繁に、宣伝ばっかししている団体があるが、

実はあれは、最悪なのです。
事細かい被害情報と、何十万何百万というカネだけを要求しておきながら、
実はまともなことはなんにもしないのです。
なぜなら、あれは医師会と金で結託していて、
医師会がバックアップしてる宣伝だけ団体だからです。

詳しい事は、2002。2月発行の別冊宝島『モンダイの弁護士』
(全国懲戒戒告弁護士全名簿付き)
を、お読み下さい。

しかも、その団体に所属してる弁護士は
あまりの性格と弁護士や法律家としての能力のひどさのため、
普通の事件でまったく顧客がつかないため、
医療事故という超売手市場で、
まともな弁護士だったら知り合い相手以外では絶対やらない、
医療事故などという分野の、
それも、このように医師会や大学病院が色濃く関係してる、
団体に登録せずには
収入が成り立たないから、
とうろくしているのです。

日本には、まだほんのちょっとだけはまだいける医療弁護士が
わずかに、2~3名だけいますが、
その名前が、インターネットや書籍に登場する事はありません。

なぜなら、こんな超売手市場な医療事故分野で、
ほんのちょっとでもまともだったら、
宣伝なんかしてるヒマなんか皆無だからです。

インターネット検索や電話帳、書籍にでてくる弁護士には、絶対近寄らないようにしましょう。

引用:別冊宝島 『モンダイの弁護士』を読もう!!! | ログ速@法律勉強相談

マスコミは他人の人生を食い物にすることによって利益を得ていると<元検弁護士のつぶやき>

実名報道問題

判決記事 裁判官が“注文”/実名報道訴訟 高裁那覇支部が文書(沖縄タイムス ウェブ魚拓)

 「実名報道→不起訴」で、福田 出さんが紹介してくださったニュースです。

 判決理由では報道側に「逮捕された事実を報道しておきながら、起訴猶予処分とされた事実などについて、もはやニュースバリューがないとして、これを報道しない姿勢にも、報道機関の在り方として考えるべき点があるように思われる」などとしている。

 刑事裁判の起訴状には、「公訴を提起する。」と書かれています。
 公訴つまり公の訴えです。
 公益性の存在が必要なわけです。
 
 起訴に対して不起訴は、起訴できない、または起訴すべきでない、または起訴するまでもない、という判断の結果として不起訴になるわけです。
 代表的な不起訴理由として、嫌疑不十分があります。言い換えれば証拠不十分です。
 灰色ということになりますが、刑事司法では灰色は無罪です。
 灰色の中には、限りなく白に近い灰色から限りなく黒に近い灰色までありますが、それは部外者にはわかりません。
 憶測で判断できないということです。
 いずれにしても、起訴すべきでない事案であり、被疑者は反公益性による非難を受けるべきではないのが原則であるはずです。
 公人たる立場で、疑われること自体が批判の対象になるような人もいると思いますが、多くの一般市民は捜査が終われば元の生活に戻れなければいけないはずです。

 起訴猶予というのは、犯罪行為の存在は認められるが起訴するまでもないという場合であり、最も典型的には軽微な交通事故で被害者との間に示談が成立したような場合ですが、本件のような場合も典型事例の一つです。
 要するに、当事者同士で紛争が解決されれば、公のものとして起訴するまでもない事件という判断に基づく不起訴であり、他人(当然マスコミも含む)がとやかく言うべきでないと認められたものです。
 つまり、起訴猶予も公の非難の対象にするべきでない事案ということになって、被疑者は再び日常に戻ることができるべきであり、刑事政策上もそのことが期待されます。

 しかし、逮捕時点での実名報道は、それだけで社会復帰の可能性を吹き飛ばす破壊力があります。
 刑事司法上では失う必要がない被疑者(その家族も含む)の人生が、マスコミの報道によってぶち壊されることになります。

 本当に実名を報道しなければならないのか?
 今報道しなければならないのか?

 マスコミの皆さんは真剣に考えていただきたいと思います。
 そうでないと、マスコミは他人の人生を食い物にすることによって利益を得ていると言われるべきことになります。

 
 ところで

 河邉裁判長は各報道機関に「御連絡」と題した文書を配り、「『教諭が過去に…の容疑で逮捕された』という事実だけでなく、『その後、起訴猶予処分(または不起訴処分)になった』という事実を盛り込んでいただけないものか、ご検討下さい」などと、異例の要請をした。

 これはまさしく異例であり、裁判所の中でもこのような裁判官の行為が許容されるかについて異論があるかも知れませんが、報道被害に対する深い憂慮の表れとして支持します。
 判決理由中で書くわけにはいかなかったのかという気もしますが、異例の方法をとることによってインパクトを狙ったのかも知れません。
 ひょっとして河邉裁判長は定年間近なのかしら(←これは憶測)
モトケン (2008年10月29日 17:32) | コメント(9) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top) 引用:実名報道問題 – 元検弁護士のつぶやき